世界フィギュア 2009

ジュベールやチャンが宙を舞う。彼らの鮮やかなジャンプを見るたびに、心が躍る。
「いいジャンプの条件とは?」と問われれば、高さ、飛距離、スピードと答えたい。そのダイナミズムとパワーこそが、私を惹きつける。私にとってのジャンプの魅力とは、優美さとは対極にあるものだ。
一方、ハイリスク・ハイリターンな技であるジャンプは、勝敗の明暗に大きく関わってくる。それは、演技者にも、観る者にさえ、準備態勢に入った瞬間からなんともいえない緊張を誘う。スリリングな緊張感は競技スポーツ観戦の醍醐味だが、競技者にとっては魔物のような存在に感じられることだろう。
もし、フィギュアスケートがステップ、スピン、スパイラルなどに代表される優美なものだけから成り立っていたならば、ひどく退屈なものに映ったに違いない。それだけに、パワフルなジャンプは、ホーッと思わず声を出したくなる感嘆と心地よい解放感を残す。優美な流れを破綻させるパワフルな緊張と緩和。それが、フィギュアスケートにおけるジャンプだと思う。


少女の頃、浅田真央は、何物にも縛られることがないかのようにリンクを自由自在に翔けていた。怖れや緊張感とは無縁の、天真爛漫な自由で伸びやかな滑りは、従来のフィギュアを見慣れた目には鮮烈に映った。
今大会、ジャンプの失敗を抜きにしても、浅田の演技は伸びやかさを欠き、なんとなく小ぢんまりとした印象を残した。浅田の滑りに緊張感と怯えが見え隠れするのが感じられる。天を翔けていた少女は、今ようやく地に降り立ち、生身の女子フィギュア選手として戦い始めたような気がする。
成功か失敗かという枠に囚われ悩むのは浅田には似合わない。高く大きく力強く跳ぶことだけを目指して欲しい。ジャンプの原点を見せて欲しい。
浅田真央には、ダイナミックでパワフルなジャンプがよく似合う。


安藤美姫の滑走スピードには、ちょっと驚かされた。長いキャリアを経た後、ここで滑走スピードを上げてくるということは、並大抵の努力でできることではないだろう。その分、本来の持ち味である繊細な動きのところどころにブレや粗さが感じられはしたものの、スピードが増したことで、ひとつひとつの動きが力強く新鮮に映った。もともと優美で繊細な表現には抜きん出たものを持っているので、演技の熟成が楽しみである。
キムヨナと浅田真央という二人の稀有な天才と同じ時代に滑る安藤美姫は、不遇といえば不遇なのかもしれない。しかし、トリノの後、彼女は着実に、そして、したたかに自分の場所を築きつつあるようにみえる。安藤とモロゾフの戦略には、これからも目が離せない。


優美さが、フィギュアスケートの最大の魅力であることは間違いない。
けれども、その優美さを支えているのは滑走のスピードであり、演技を単調さから救っているのは力強いジャンプである。
フィギュアスケートにおける躍動感の大切さをあらためて認識させられた今回の世界フィギュアであった。


(表現に満足できないところが多くあったため、4月5日に大幅に加筆修正したことをお詫び申し上げます。なお、論旨は変えておりません。)

 WBCが終わった


WBC決勝は近来稀にみる内容の濃い、面白い試合であったが、ゲーム観戦の面白さってなんだろうと考えてみたとき、[観衆の感じる面白さ] = [ゲーム自体の面白さ]+[ゲームにかける想いの強さ]+[ゲームの勝敗への満足度]という図式を思いついた。
この図式から考えれば、WBCはUSAの人たちにはひどくつまらない大会に映ったに違いない。そもそも今回のUSA代表チームが国内のベストメンバーを結集したチームであると納得できないことに加え、負けているのにレギュレーションのせいで居残ってはまた負ける……、不愉快極まりなかったのではないだろうか(もっとも、ベストメンバーを組んで同様の成績に終わったならば、さらに不快感がつのったに違いないが)。
さらに言えば、あくまでもそれはWBCに関心を持った米国民に限っての話であって、USAでいったいどのくらいの人がWBCに関心を持っていたのか、もっと言うならば、どのくらいの人にWBCの存在が認知されていたのか。Jリーグ誕生以前のトヨタカップのような認知度ではないかと私は勝手に想像しているが、本当のところはどうなのだろう。
USA国内での盛り上がりには、まずベストメンバーの招集が不可欠なものと考えられるが、MLB各球団の反応を見ていると、今回の惨敗を受けてすら、4年後にそのような機運が盛り上がることは期待薄に思われる。あとは、USAのメジャーリーガーのプライドに賭けるしかないだろう。
これは、今後のWBCを考えていく上でとても重要な課題だと思う。USA国内での盛り上がりなくしては、WBCという大会の権威というか格も生まれにくい。そのような状況だと、自国本位の考えで恐縮だが、日本にとってWBCで勝つ意味が真に深まることはないし、日本の野球に対する認知度がUSAで高まることもないだろう。
日本にとってだけではない。他のプロスポーツリーグと伍して戦おうと米国内でのプロモーションを意図するとき、これだけ各国が力を入れ始めたWBCというイベントの認知度を米国内で高めることはMLBにとって重要な課題であると思う。いつMLBは本気になるのだろう。


MLBにとってのWBCの意義とは何かと考えてみた。
1) 参加各国での放映権料の獲得、関連グッズ収入などの商業的な成功
2) 参加各国へのMLBのプロモーション
3) 新戦力の発掘
ざっとこんなもんだろうか。
1)に関しては、エントリを書くためにわざわざ調べるのが億劫なので、詳細には触れることができない(ものぐさなスタンスでやっているもので……。どうもすみません)。ただ、1)は現実的な稼ぎという面だけに留まらず、2)のプロモーションの意味も兼ね備えているのだろう。
おそらく、MLBはメジャーリーガーたちが各国代表として優れたプレーを競い合う場としてWBCを用意し、その結果、そういった秀でたプレーヤーたちが世界中から集う唯一無二のリーグ、MLBの素晴らしさを参加各国にプロモーションすることによって世界市場を拡大しようという目論見を持っているだろうと推測する。
今回、日本チームに参加したメジャーリーガーはイチロー、城島、岩村、福留、松坂と大幅に増えた。しかし、彼ら日本人メジャーリーガーは、私の感覚として、メジャーリーガーである以前に日本人プレーヤーである。いくら彼らが活躍しようが、それは日本人選手の活躍であり、彼らのプレーからメジャーリーグの素晴らしさは伝わって来るはずもない。
私は、対USA戦を開始から終了まで全く観戦できなかったので、結局メジャーリーガーとして意識したのは韓国の秋信守ただ1人(彼にしても、むしろ韓国の選手という意識が強い)。韓国サイドから日本のメジャーリーガーを見ても、おそらく同じような意識だろうと想像する。
MLBのプロモーションを目的とするならば、日韓が5度戦うような組み合わせではなく、両国がもっと異国のメジャーリーガーと対戦するような組み合わせにすべきだったのではないだろうかと思う。もっとも、今回の日韓両チームの充実度を考えれば、まだ深手を負わなかったともいえるが(笑)。
3)に関しては、できることならこれ以上のメジャー流出は勘弁して欲しいというのが本音である。しかしながら、同じ働く者の気持ちとしてNPB主力選手のメジャー志向は十分理解できるし、何よりNPBMLBでの雇用条件があまりにかけ離れているため、やはり仕方がないことなのだろうとも感じている。
これは、おそらくどこの国の国内リーグでも抱えている問題だろう。各国の国内リーグの労働環境がさらに成熟し、MLBと肩を並べる日が1日も早く訪れることを願っている(ひょっとすると、MLBが衰退することで肩を並べる日が訪れる可能性のほうが高いかもしれない)。


最後に感想を。
NPBにとっては国内に向けてよいプロモーションになったと思う。野球中継と疎遠になっている人たちの中には、岩隈、杉内、内川、村田、中島、片岡などといった選手たちのプレーを初めて目にした方も多かったのではないか。メジャーへの流出はこれからも続くのだろうが、まだまだNPBにも素晴らしいプレーヤーが大勢いることを改めて嬉しく感じる。どの選手をとっても、本当にひたむきなプレーが心に残った。
大会全般を通じて、中途半端な起用になった一部の選手には気の毒ではあったが、侍JAPANの戦力はとてもバランスよく機能したと思う(ただ1人、福留の元気がなかったのが心配だ)。大会前、国際試合に強くユーティリティープレーヤーでもある西岡の不在が気になっていたが、岩村、中島、片岡、川崎の4人で、村田を欠いた後でさえ、2塁、遊撃、3塁は十分機能していた(勿論、栗原の追加招集や小笠原の存在はあったが)。本当によい人選だったと思う。
日韓の原、金両監督は、ともに抑制の効いた紳士的なコメントを残し、好感が持てた。


しかし、原監督。髪の色や長さに関しては余計なお世話だと思います。

 山下達郎 PERFORMANCE 2008-2009


大学の夏休みに、友人と沖縄へ行ったことがある。今から26年余り前の話だ。
自由にできる資金も乏しく、行きも帰りも船を使った。夜のうちに大阪南港を出航し、翌日は丸々1日海の上、次の朝になっても船はまだ洋上をのんびりと走っている。金は使わないが、とんでもなく時間を浪費してしまう、そんな旅だった。
勘違いかもしれないが、それでも当時、学生の沖縄旅行と言えば船が主流だったと思う。
洋上では有り余るほどの時間はあるが、携帯電話もパソコンもゲームない。そんな時代に暇を持て余した若者のすることといえば、音楽を聴くことくらいだった。当時、カセットテープを聴くタイプのウォークマンも既にあったようだが、重いことなどなんのその、ラジカセを持ち込んで聴いていた若者も多かった。
船上には様々な音楽が入り乱れていたが、なかでも圧倒的に人気があったのが大滝詠一山下達郎だった。奇しくも二人はシュガーベイブという同じバンドの出身 (大滝はプロデューサーとして参加)。シュガーベイブはそれほどポピュラーなバンドではなかったし、お互いシンパシーを感じていたにせよ、二人の音楽が似ているというわけでもないので、これは奇妙な偶然というしかない。
東シナ海に射す夏の光に達郎の『SPARKLE』がよく似合っていた……。


思い出話から始めてしまったが、私にとっての山下達郎の音楽とは、それを聴くと当時の記憶が走馬灯のように駆け巡る……といった類の懐かしのメロディーではない。時は流れても、変わらず私の生活とともに息づいている「今」の歌である。
6年ぶりに山下達郎がコンサートツアーを行っている。6年前、広島郵便貯金会館の立見席で聴いて以来、この日が来るのをどれほど待ち望んでいたことか。これはいかねばなるまい。


というわけで、妻に買ってもらった達郎のツアーTシャツとパーカーを着込んで(馬鹿なオヤジだね)いそいそとコンサートに行ってきた。
開演前なのでステージの照明は落ちているが、昔懐かしいジャケ写を模したセットが見える。もうすっかり気分は達郎ワールドに。
客席を見ると、なんとなくしっくり馴染んでいないカジュアルなオヤジやオバチャンがぞろぞろとうろついていたりするかと思うと、カシミアのコートに身を包んだメッチャ渋い初老の紳士がいたりして、会場の平均年齢はさすがに高い。
それでも、皆、20代の頃のあの夏の光に照らされたような、いい笑顔で微笑みながら開演を待っている。
私より10才以上は若いと思われる隣席の女性が連れの女友達と話しているのが聞こえてくる。
「なんせ伝説の人だからね。達郎のコンサートに行くって会社で話したら、『ちゃんと生きて動いていたかどうか、しっかり確かめてきて』って○○さんに言われた。」って達郎はシーラカンスか!


なんとかいい音、いいリズムを届けたいという山下達郎の熱がMCから伝わってくる。それだけに彼自身の歌声も含めたバンドの音とリズムは圧倒的な力で迫ってくる。
リズムセクションがどうだとかいう音楽的な話より何より、とにかくその歌声である。第一声が流れた瞬間、「これだよ」という身震いするような感覚が体の芯から込み上げてくる。
これは、生で聴いた時初めて歌に込められた想いが伝わってくるとかいう精神論的なものではない。ライブで聴く山下達郎の声はCDで聴く声よりも遥かに豊かに感じる。
ファルセットはどこまでも舞い上がるように上り、独特の「ウォーゥーオゥー」といった波がうねるかのような節回しやフェイクも十分にパワフルだ(こう言ってしまえば、自分の生の音をどうCDで表現するかという命題と格闘している達郎に気の毒だが)。
とにかく歌声が力強くシャウトする。ライブでなければ味わえない山下達郎の真骨頂である。


もっともっとコンサートの細部にわたって語りつくしたいところだが、ネタばれになるので、残念ながら触れることはできない。
いろいろな事情が6年間の空白を生んだようだが、久々に観る山下達郎はライブで音楽ができる喜び、ステージに立つ喜びをかみしめているように見えた。そして、今まで以上に自分のライブに足を運んでくれる聴衆への感謝の気持ちに溢れているようにも見えた。
素晴らしいバンドもできたことだし、そして何より、あの声のツヤとハリ……。
まだ御歳56歳。
まだまだやれますよ、達郎さん。

 銀座眼科での近視手術事故に思う


私は、専門医としての資格を持っていない。
私が持っているのは、医師免許証、日本医師会認定産業医だけで(ケアマネージャーも持ってはいるが、もともと介護事業や介護保険の仕組みを理解するために取得したもので、現在も今後も、その資格で活動するつもりはないため県へ返納する予定にしている)、それがないと特定の医療や介護に関する行為が行えないという類の資格だけである。
どうしてこんなことを書くのかといえば、先日、銀座眼科で行われたレーシック手術(レーザーを使い近視を矯正する手術)での事故の報道の際、さかんに「眼科専門医でない」ということが指摘されていたのがちょっと気になったからだ。
自分が専門医でないということを気にしているのではない。気になったのは、専門医であることがいかにも良質な医療の提供を保障しているかのように報道されていたからである。


それぞれの専門分野によって多少異なるところはあるが、概ねのところ、専門医は各学会が認定した資格基準を満たせば取得することができ、そして、学会や研修会に出席して必要単位を取得すれば維持することができる。専門医の資格基準には、学会の認定した専門性のある施設で必要な研修を受けたり、専門的知識を問う試験に合格したりすることが含まれるため、専門医は、ある一定の水準以上の知識レベルがあると学会が評価しなければ取得することができない(技術レベルの評価に関しては微妙)。
専門医でない私が言うのも我田引水のようで嫌なのだが、専門医という資格は必ずしも医療の質を保証しているものではない。前述のように、実際に提供された医療を評価して与えられるものではないからだ。


先日、こんな事例があった。
ある大学病院の神経内科パーキンソン病として通院している方なのだが、左手の痺れが治らないという。大学病院の神経内科でも、近所の整形外科(専門医を標榜)でも、MRIなどの検査も行い診てもらいはしたが、原因はよく分からず、「ビタミン剤を飲んで様子をみましょう。」ということになったらしい。
診察の結果、左のギヨン管(手首にある神経の通路のようなもので、周囲の組織で神経が圧迫されやすい)で尺骨神経が圧迫されているためと診断した。診断はそれほど困難なものではない。診断結果を伝えると「初めて言われました。」と驚きを隠せない様子。「そんなことはないでしょう。」と言うと、「いえ、最初は『肩が凝っているから』とか『歳のせいでしょう。』と言われ、それでも調べてくださるようにお願いすると、頭と頸のMRIを撮ってくださいました。で、その結果……。ご近所の整形外科でも全く同じでした。」
どの病院もご夫妻で受診されており、お二人とも認知症もなくしっかりされておられたので、他院での診断結果がよく理解できなかったというのでもなさそうである(よしんば、正しく診断されていたとしても、それが本人たちに正しく伝わっていないことには変わりない)。
何も私が特殊な技術や検査を用いたのではない。丁寧にお話を伺い、基本に忠実に診察していけば診断に辿り着くのはけっして困難なことではない。但し、それを行えば、診察時間はそれなりにかかる(MRIなどの画像診断はさらに時間も費用も要するが、それは診察室で費やされる時間ではない)。
これだけの診断技術がないというのならお話にもならない(そんな事例もない訳ではない)が、おそらく優れた診療技術を持ちながらも、前の先生方は手間隙を惜しんだのだろうと思われる。眼の前にいる人の思いに応えないで何の医療か……お寒い医療の現状に直面することは日常の臨床で珍しいことではない。


何も私は専門医を否定しているわけではない。専門医は、少なくともその道を極めたいという明確な意思を持つものに与えられているだろうし、一定の水準以上の知識を持っていることについて学会から評価を受けている分、専門分野の診療に関して言えば、非専門医より優れた人材は圧倒的に多い。
しかしながら、前述したように、現実に行われている診療は必ずしも優れたものばかりとはいえない。
これは、資質や能力、医療に対する姿勢にだけその原因があるのではなく、プライマリケアで十分診療が可能な疾患までもが専門医のところに押し寄せることで余裕のある診療ができなくなっていることにも起因している。プライマリケアを担当する非専門医の診療に対する信頼が低いことも一因だが、非専門医の怠慢によるところもあるだろう。


個々の医師が提供している医療の質を評価する基準を定め、定期的に試験をおこなったり、抜き打ちの調査を行ったりすることは、健全な方向であるとは思う。しかしながら、医療のあらゆる面に客観的評価基準を定めること(手術成績ひとつとっても、かなり評価が難しい面を抱えている)、実際の臨床に即した試験の実施(現在行われている国家試験や専門医試験でさえ満足できるものではない)、誰がそれを評価するかなど数多くの困難が存在する。
ただ、医療のレベルを安易に未完成な基準だけで判断することは、厳に慎むべきではないだろうか。


医療に限らず、仕事を依頼する際には、できるだけ人として信頼できる人間に依頼するのが一番安心できる。
この原則に従えば、人間的に信頼できる医師を身近に一人でもいいから見つけることが大切だと思う。極端なことを言えば、実力うんぬんは関係ない。人として信頼できる人間ならば、いつどんな時でも真摯に向き合ってくれるだろうし、己の限界にも正直である。要求されたことが自分の手に余れば、一所懸命調べてくれたり、最適と考えられる専門医を紹介してくれたりするだろう。もちろん、その医師が十分なプライマリケアができるのであればそれに越したことはない。
極めて当たり前の結論ではあるが、これが最もお勧めできる医療との付き合い方なのだと考える。

 09' 日本アカデミー賞


先日、たまたま点けたTVで日本アカデミー賞の中継をやっていた。『おくりびと』がほぼ一人勝ちの様相だったが、木村多江が主演女優賞をとった時は、なんだかほっとした。
あまり賞の行方には関心がない方なので曖昧な記憶で恐縮だが、これまでも日本アカデミー賞は一人勝ちになることが多かったような気がする。『おくりびと』はとてもいい映画であったし、賞を独占しても不思議はないのだが、実際に一人勝ちしていく様にはなんとも不自然な印象を受けた。
賞は、現役の人も含めて映画製作に携わった経験のある日本アカデミー賞協会員全員の投票により決まるらしい。
作品賞は自分がベストと感じた映画を挙げれば良いのだから誰にも選びやすいと思うが、脚本と演出の区別は、素人の私などには大変難しく感じる。そこで、実際に脚本と演出に接した経験のある関係者が賞を選ぶということには一つの見識を感じる。
しかし、録音、照明、編集、撮影などの技術的な評価は、実際にそれぞれの専門に携わったプロでなければさらに評価は難しいのではないかと思われる。『おくりびと』の録音、照明、編集、撮影が他の映画に比べて優れていたかといえば、私にはさっぱり分からない。
せっかくこうした縁の下の力持ち的な役割にスポットを当てるのであるなら、しっかりとした評価のできるプロにその選考を任せてもよいのではないかと感じた。


おくりびと』の関係者が次々に受賞するなかで、取り残された広末涼子には気の毒な授賞式になった。受賞者を笑顔で祝福する姿がひどく健気に見えた。
おくりびと』には主演男優はいても、主演女優に相当する役はないと私は思う。最優秀主演女優賞を争うには、広末の役ではインパクトが弱すぎる。個人的な感想だが、『おくりびと』で最優秀助演女優賞に選ばれるべきは余貴美子ではなく、むしろ広末涼子ではないかと思った。
本木雅弘山崎努ら出演者のコメントを聞いていて、彼女はこの映画でいい勉強をしたように思えた。今後、さらに一皮向けて成長した演技を見せて欲しいと願っている。

 15秒ルールってなんだろうね


私の周りにいるプロ野球ファン(といっても、家族のことだが……)の声を聞くと、15秒ルールには軒並み反対のようだ。
1球あたりの持ち時間を短くすれば、労せずして試合時間の短縮に繋がるという発想には、あまりに単純で能天気な感じを受ける。ペナルティーによりカウントを悪くし、四球での出塁が頻発すれば、かえって試合時間は長くなってしまうかも知れない。
確かに15秒といえば、打者の様子やその他のいろいろな状況を観察したり、打者のその日のバッティング内容や過去のデータを思い出したり、自分の投球内容を振り返ったり、その他様々なことを思い描いた上で投手が次の1球を決断するのにはあまりに短い。
ああだこうだと思いを巡らしながら、次の1球を予想する野球ファン(私もその1人だが)から空想する楽しみや予想が的中する喜びを奪い取るほどの短さかも知れない。
とにかく野球ファンが概ね反対していると仮定すれば(仮定するにはあまりに雑なサンプリングであるが)、いったい誰のためのルール改正なのだろうかと思わないわけでもない。


けれども、(ランナーのことを考慮に入れなければ)その日の自分の一番いい球をどう見せるかということと打者の狙い球が何であるのかということが投球の組み立ての肝であるなら、そして、15秒がそれに絞って考えるのに十分な時間であるなら、余計なことを考えず、「えいやっ」と思い切りよく投げ込んだほうが、面白い野球になるような気もするのである。
試合時間が短縮されれば、帰りの電車の時刻も気にしなくて済むし、新たに自由に使える時間を手にいれることもできる。シンプルでスピーディーな野球が人々の眼に新鮮に映れば、新たなファン層を獲得できるかも知れない。
文句を言っている野球ファンも、ルール改正になったからといってそれだけで野球から離れていくことはあるまい。ファンが離れていくのは、野球が本当につまらなくなったときだろう。


果たしてどちらが野球を面白くするか。私は野球が面白くなる方向に賛成だ。
実のところ、エントリを書き始めるまでは反対という立場から書くつもりだったのだが、やってみるのもありだなと今は思い始めている。
そんなことできるはずはないと思っている投手は大勢いるかもしれない。野球ファンの多くも、投手心理を考えれば、なんと馬鹿なことをと思っているかもしれない。
でも、本当にそうだろうか?それが、ただの思い込みでないと言い切れるのか?


ダルビッシュが急先鋒となって反対ののろしを上げたのを皮切りに、現場の投手やベンチからも続々とルールの効果を疑問視する声があがり始めているようだ。
ルール改正の際、現場の声を十分に聞いたのかという疑問は残る。現場での理解をまず求めることなしに改正を進めたのであれば、それは野球のプロフェッショナルたちに敬意を欠くやり方であったと言われても仕方がないが、この点に関しては、調べてもいないし調べる気もないので、私はコメントできる立場にない。
ただ、今になって現場から反対の声が出ているところをみると、あまりうまいやり方ではなかったのだろうと推測する。


確かに、ルール改正が個々の投手の個人成績には少なからぬ影響をもたらすかもしれない。
そうであるかもしれないが、一流の球を持っている一流の投手が「こんなルールでは投げられない」と初めから投げ出してしまうのも、ナイーブに過ぎるように思える。ぐちゃぐちゃ考える野球から、力と力のぶつかり合いの野球へ大きく変わるチャンスになる可能性だってあるし、そうなれば、力のあるものほど有利になる。
過剰に神経質になることは、間違いなくマイナスに作用するだろう。


結果を恐れていては何もできないでしょう。
たとえうまくいかなかったとしても、プロ野球に決定的なダメージが生じるとは思えない。
しくじれば、改良点を見つけてやり直せばいいんじゃないの。
やってみなければ、いいか悪いかはわからないよ。
だったら、やってみようよ。

 タイトルが変わりました


「この頃、父さんは語り始める前に寝てしまってるよね。」
休日の朝、エントリを書いていると長男が愉快そうに絡んできた。
「そう、早寝・早起き。」
「早寝・早起き、朝ごはん!」
長男の元気のいいリフレインが、朝の気分に似つかわしく清々しかった。
「うん、これにしよう。」ということで、再開した途端に突然で恐縮だが、たった今よりブログのタイトルを『早寝・早起き、朝ごはん』に変えることにした。


そもそも『語りつくすまで眠れない』も、熟慮を重ねた末に決めたわけではない。「眠れねぇなぁ……。」と思いながらディスプレイと向かい合っているとき、適当に思いついたタイトルをつけた。
つけてしまってから「どうせたいしたことを語るはずもないのに、てめぇが眠ろうがどうしようが関係ねぇよ。」という声が聞こえてきそうで、ひどく後悔した。深刻で力んだ感じも気恥ずかしかったが、その頃の気分に妙にフィットしていたのと、まあ、タイトルなんてどっちでもいいよなぁというちゃらんぽらんな気持ちがあったので、今日までだらだらと使い続けてきた。
タイトルそのものには何の思い入れもないが、このタイトルの下で幾つも思い入れのあるエントリを書いてきたので、いざ手放すとなると、それなりにいとおしさも感じている。


じゃあ、「『早寝・早起き、朝ごはん』ってそんなにいいタイトルか?」と言われると、なんとも返事に困るわけだが、今の気分に妙にフィットしているのと、どーせタイトルなんてどっちでもいいよなぁというちゃらんぽらんな気持ちでつけたので(あれ、確かどっかで……)、こいつをまただらだらと使い続けていくんだろうなぁー。


とにかく朝のひんやりとした空気の爽やかさと、朝陽をいっぱいに浴びながらもりもりと飯を食う健康的なイメージに、なんとなくポジティブさを感じていただければありがたいと思っている。