『万引き家族』〜家族とはなんだろう〜

安藤サクラが尋問されるシーンを観ていて、あるフレーズを思い出した。
「いろいろ事情があるんだろうよ……」
伊集院静『大人の流儀』に収められている『妻と死別した日のこと』の冒頭の一節である。

伊集院少年と彼の弟が、夕闇迫る路地で、女湯の高窓に張り付く男の姿を目撃する。
少年たちは大急ぎで家に帰り、目撃した一部始終を息せき切って母に告げるのだが……
「そう、覗いていたかね。それはよほどせんない事情があって、そうしているのよ。早く夕飯を食べなさい」
と、意外な返事が返ってくる。

〜人間一人が、この世を生き抜いていこうとすると、他人には話せぬ事情をかかえるものだ。他人のかかえる事情は、当人以外の人には想像がつかぬものがあると私は考えている。〜
(原文の一部を要約)

たとえて言うなら、この事情とは、人が生きていくうえでいつの間にか背負いこんでしまい、おろすことのできなくなった荷物のようなものだろうか。
それは、その価値を善悪、正誤、好き嫌い、快・不快…といった基準で図ったうえで、抱え続けたり、切り捨てたりの判断ができるような代物ではない。
ひとが生きてくうえでどうしても抗い難いものが、その人が抱えてしまった事情なのだろうと思う。



万引き家族』は、いろいろな事情をかかえた赤の他人6人から成る疑似家族のお話だ。
昭和の頃を彷彿とさせるような家で、「家族」のそれぞれは繋がりを求め、実際、繋がっていくようにもみえる。
が、6人皆揃っての海水浴を幸せのピークに、やがて「家族」は破綻に向かう……。
是枝監督が用意した様々な事情が、この疑似家族という共同体の存続を許さないのである。



万引きがばれて捕まったらどうするというだけではない。
子供が病気になったり、怪我をしたりすればどうする?健康保険証は?
本人確認は?住民票は?戸籍は?いろいろな届け出は?
年金収入がなくなればどうする?子供の就学は?
そもそも世帯ではないこの「家族」が現代の社会の仕組みの中で生き抜いていくことは、ちょっと考えただけでも、とても難しい。
さらに、作品では、「家族」をつくるお互いが、それぞれの事情にあえて踏み込むことをしていない。
お互いの干渉がないことは、自由で気楽である反面、隠れていた事情が明るみに出ることで気持ちの揺れも生じやすくなるだろう。
「家族」は、危ういタイトロープを渡っている。



事情を知る観客の眼には、「妹にはさせるなよ」と万引きを見逃す駄菓子屋のおやじ(柄本明)は好意的に映り、真っ当な正義を語りつつ安藤を責める池脇千鶴の言葉は薄っぺらく映るだろう。
子供までも万引きをせざるを得ないほどの貧困の存在や、正義面だけはするくせに、問題を解決しようとはしない世間に対する批判がここにはあるのかもしれない。
しかし、それよりも、様々な事情を背負って破綻していく疑似家族のドラマを観せられたとき、この疑似家族と本物の家族の違いはどこにあるのだろうと考えさせられた。
思いやりとか、お互いを分かり合おうとする努力とか、いろいろと思い浮かべてはみるが、なかなかピンとくるものが浮かんでこなかったところに、リリー・フランキーの「おじさんでいい」という言葉が引っ掛かった。
そうだ、この男は、「お父さん」と呼んで欲しかったのだ。
この男にとって家族とは、自分の心を潤すだけの存在でしかなく、自分の欲や事情などにかまわず愛を注ぐべき対象となるまでには至っていない。
自分たちの抱える様々な事情があったとしても、敢えて一歩踏み出し、「家族」を守る愛情、勇気を示すことは、彼には難しいだろう。
それを自覚してか否か、一連の経緯から自らの限界を感じた男は、「お父さん」から「おじさん」に撤退したのではないだろうか。
家族の一員としてふるまう際、「この行動は、この願いは、この思いは、いったい誰のためのものだろう……。」
そう顧みたとき、あるべき真の家族の姿が見えてくるように思う。



男の子を乗せたバスが、男からどんどん離れていく。追いつこうと全力で走る男から、さらにどんどん離れていく……。
家族になれない哀しみが伝わってくる、せつないラストシーンであった。

 「奪われた野にも春は来るか」鄭周河(チョン・ジュハ)写真展に行く


写真の中の、もとより人影の乏しい、あるいは、意識的に人影を排した山間や田園の景観は、穏やかで、静かで、拍子抜けがするくらいありふれた日常的な風景にみえた。



地震津波の爪痕がくっきりと残された写真を視なければ、福島県南相馬市周辺の地域で撮られたことに全く気づかないような写真が並ぶ。注意して視れば、遠くに写る民家の梁が曲がっていたり、壁が崩れていたりはするものの、おそらく、福島に住む人々にとっても、ちょっと見ただけでは、震災前と大きくかけ離れていない眺めなのかもしれない。そこに写されているものは、住人たちを、長い歳月、育み、見守ってきた風景なのだろう。
ただ、風景の中に人がいないこととも関係しているのだろうが、じっとみつめていると、不気味さや不安と似てはいるが微妙に違う、ひどく不安定な、居心地の悪い感じを覚えてくる。



「これは福島なのだ」と、意識して視る。静かな風景の中にある木々、美しい紅葉、落ち葉、草、藁、土……、全てが放射能に汚染されているかもしれないという怖しい現実が、あらためて意識される。
自分の故郷の風景を想像してみる。そして、その懐かしい田園風景のすべてが放射能に汚染されていることを想像しながら、さらに写真に向かう。
写真に写った風景が一変する。



立ち入りが制限された区域で撮ったという事実は別にして、多くの写真には、特別なものが写っているわけではない。写真家の意匠が、被写体に強く表れた写真でもない。それでも、これは特別な写真なのだと思う。
今、生活を営んでいる土地や懐かしい故郷の風景は、そこで生きて経験してきた様々な出来事や感情を呼び起こす。そこで暮らす人々にとっては、大切な意味を持った風景だ。おそらく、並べられたどの写真にも、福島の人々にとって大切な意味を持った風景が写されている。
写真家は、そこで生活する人たちの心に出来得る限り近づこうとしながらシャッターを切ったのではないか。福島の人々の目線で撮られた風景は、自ずと視る者に福島の人の目線で視ることを強いる。
それぞれの写真からは、「そこで生活を営む人の目線で風景を眺め、さらにイマジネーションを働かすことで初めて、視る者は福島の悲しみや怒りに少しでも触れることができるのだ」という静かで強い意志を感じた。



5月3日、会場で催されるオープニングトークに鄭周河が招かれているということもあって、「奪われた野にも春は来るか」〜鄭周河(チョン・ジュハ)写真展〜(立命館大学 国際平和ミュージアム、京都)に行ってきた。
会場で見た鄭周河の、ある意味人間離れした、我というものを感じさせることのない、静かで謙虚なまなざし、表情は、ひときわ異彩を放っていた。さすがにトークの際には、熱い語り口とともに表情は一変したものの、普段の限りなく穏やかな表情からは、被写体を見つめる「当事者としての眼」を獲得するために払われたであろう、並々ならぬ苦労や努力が窺われた。
鄭周河という写真家をひと目見られただけでも、はるばる京都まで日帰りで写真展にやってきた意味を感じた。鄭周河は、それほどの佇まいを持っていた。



多くの人々の命を飲み込んでいった海は、再び穏やかな表情を取り戻し、水平線の彼方は、祈りの対象となった。そして、東北の空には、震災前と変わらぬ美しい星々が輝いている。
順路の締めくくりに並べられた数枚の写真からは、「春は来るか」という問いへの答えになるかどうかは分からないが、これからの希望を見出そうとする願いを強く感じた。

まど・みちお さんを偲ぶ


「耳からね、こんなところからね、毛が生えているんですよ。『これは、詩にするしかない!』と思いましたね。」と、詩人は、嬉しそうに語っていた。
老いていく自分と、その自分の中から新たに生まれてくる耳毛という生命の息吹。その対比の面白さと、自分の中に存在する生命力への驚き、感動、喜び。まど・みちおの表情や言葉には、稀有な感性を持つこの詩人の魅力が溢れていた。
2010年頃に視たNHKスペシャルを、おぼろげな記憶をたどりつつ書いたので、正確ではないだろうが、概ね、このような内容のインタビューがあったと記憶している。
同じ番組で紹介されていた「さかな」という詩も、凄かった(著作権に疎いので、引用を差し控えさせてください。ご興味をお持ちの方は、まど・みちお、さかなで検索されるとヒットすると思います。)この世界というか、宇宙の摂理にも通じる、深い洞察に満ちた哲学的なこの詩も、きっと、食卓で魚をつつきながら思い描いたに違いない。目を輝かして嬉しそうに魚をつつく、まど・みちおの顔を想像すると、自然と笑みが浮かんで温かいものが胸にこみあげてくるのを感じる。


そういえば、妻は、「一年生になったら」という詩は、あまり好きではないらしい。「ともだちひゃくにんできるかな」というところに「友達は数じゃないっ!」とつっこむのが彼女の常だが、なるほど、ごもっとも。
けれども、歌詞全体を読んでみると、大勢で、心を一つにして行動したときの爽快感、痛快さを謳った詩ではないかと思う。今度、全文を読んでもらって感想を聞いてみよう。


まど・みちお
あなたの詩がほんとうに大好きでした。
謹んでご冥福をお祈り申し上げます。

 ソチ五輪のフィギュアスケートを観て考えたこと


ソチ五輪フィギュア男子フリーの最終組の演技が進むにつれ、苛立ちがつのっていくのを感じていた。この満たされぬ思いは、いったい何なのだろう。
緊張感のためか、リンクに上がる選手が次々に失敗していく。こんな最終組は、あまり見た記憶がないなぁ…、とか思っているうちに、とうとう、ベストの滑りができた選手が現れないまま、競技は終了してしまった。
最終組では、それぞれに失敗があったにせよ、フェルナンデスの確かなスケーティングや、ステップで舞う高橋の繊細な動きなどには、心揺さぶられるものがあった。そこから分かったことは、誰の演技が優れているかということは別にして、結局、自分は、「プログラムの流れに破綻がない」ことを求めているということだった。
回転不足であろうが、両足着氷であろうが、プログラムの流れに中断が生じるわけではない。羽生やチャンのように、たとえ質の高い演技をしても、転倒してパフォーマンスの流れが中断してしまうよりも、よどみなく演技が流れていくのを欲していることに初めて気がついたのである。
そういった意味で、テンのフリーは素晴らしかったと思う。数々の怪我や病気による調整不足もあってか、スピードこそなかったが、テンは、破綻のない美しいスケーティングを見せてくれた。
ただ、エラそうな物言いで恐縮ではあるが、観ていて新鮮な驚きを感じることはなかった。ショートでの羽生やチャンの演技を観たときのような興奮が湧いてこないのだ。この感じは、女子フリーで、キムやコストナーを観ていた時も同じだった。



観衆というものは、なんて貪欲で残酷なものなのだろう。プログラムの流れに破綻があってはけしからん、きれいで美しいだけでは、物足りん…。



結果的に、羽生やチャンは、テンよりも高得点を得た。採点には詳しくないが、これが、細かいチェックに従って積み重ねられた加点、減点がもたらした結果なのだろう。こうした一つ一つの技に対する評価こそが、フィギュアを競技スポーツとして成立させ、オリンピックで競う意義を持たせているのだという厳然たる事実を、ソチ五輪男子フリーでの採点は、あらためて認識させてくれた。
美しさがもたらす官能と難度の高い技がもたらす刺激・興奮。その価値に優劣をつけることは、至難の技だろう。これまでの論の流れから誤解があるかもしれないが、フィギュアスケートが競技スポーツである以上、最高に美しい演技よりも、誰も成し得ないような高難度の技こそが、最大のリスペクトを持って評価されるべきだと私は考えている。
ただ、どんな高度な技を行っても、プログラムの流れに破綻を来すような失敗があっては、高い評価ができない。ソチ男子フリーでは、羽生やチャンよりテンが評価されるべきだし、バンクーバー男子フリーでは、プルシェンコよりライサチェクが評価されるべきだと思う。
しかし、こんなことは、私の基準でものを言っているにすぎない。繰り返しになるが、全く違う価値観である技と美を同じ土俵で戦わすこと自体、とても困難で、ある意味ナンセンスなことだとも思う。それでも、私は、競技としてのフィギュアが見たい。
優劣の評価のために存在するのは、その時代のフィギュアの権威者たちの間で、出来るだけのコンセンサスをとりつけた採点基準だけだ。バンクーバー五輪男子フリーでは、完成度の高い美しさがより重視され、ソチ五輪男子フリーでは、高度なテクニックがより重視された採点が、演技の優劣を決めたに過ぎないと思う。
時代とともに、そして採点者、競技者、観衆など、それぞれの立場で、美と技の間を揺れながら、演技の評価は変わっていく。それが、自分の評価と大きく食い違っても、それはそれで仕方がないことだと感じている。



けれども、どうしても譲れないところはある。
しつこく繰り返すが、フィギュアスケートは、競技スポーツである。そして、美しさの差は、おそらく極めて主観的な尺度に左右されるだろう。それゆえに、最高に美しい演技よりも、誰も成し得ないような高難度の技こそが、最大のリスペクトを持って評価されるべきだと私は考えている。
私は、女子の選手が、誰一人として試合で飛ぶことのできないトリプルアクセルを何度も飛んでいる浅田真央こそ、世界最高の女子選手だと信じて疑わない。
確かに、コンビネーションやジャンプでの採点基準に従った減点や加点によって、浅田の得点がキムやソトニコワの得点を下回る理屈は分かる。しかし、現状の男子と女子の演技水準を考えた場合、トリプルアクセルを男子が飛ぶことと女子が飛ぶことでは、当然その価値が全く違う。トリプルアクセルは、浅田以外の女子選手の誰も、試合で飛ぶことのできないジャンプであるという事実が、軽視され過ぎてはいないか。トリプルアクセルの成功には、もっと十分な加点が与えられるべきだと思う。そして、トリプルアクセルを成功させ、破綻なくプログラムを終えた浅田真央の演技が最高得点を取れないのであるならば、そのような採点基準は見直したほうがいいのではないかと考える。



バンクーバーで、リスクの高い4回転よりも完成された3回転を見せることを迷わず選んだライサチェクや技の熟成度を重んじた採点に対して、プルシェンコが敢然と牙をむいたのを思い出す。
プルシェンコが見据えていたのは、フィギュアスケートの明日の姿だろう。目先の結果ばかりを求めて、誰もが難しい技に挑戦するのを避けるようになれば、フィギュアスケートは競技としての魅力を失い、やがて支持も失っていく...。新たな世界の扉を叩き続けた開拓者としてばかりでなく、そのような危機感を絶えず持ちながら、プルシェンコは、滑り続けてきたように思う。
プルシェンコの引退が、体調の悪化のため、個人戦を待たずして早まったことは、悲しく寂しいことではあるが、どんな優れた選手も、やがて歳をとり、確実にその日はやってくる。プルシェンコの「これからは、羽生結弦が私のヒーロー」という指名の持つ意味は重いが、彼には、ぜひその心意気を引き継いでもらいたいと思う。そして、プルシェンコに「ファイター」と称えられた浅田真央もまた、まだまだフィギュアスケートを引っ張っていって欲しいと願っている。



スポーツ紙によると、羽生は4.5回転アクセルを試みているらしい。なんとも頼もしい限りだ。
4回転のループ、フリップ、ルッツなども見てみたいなぁ...、安藤以来になる女子の4回転も見られたら...。
欲望は、募るばかりだ。
フィギュアスケートの新たな地平を切り開く選手の出現を心より願う。

 『ペコロスの母に会いに行く』〜人と記憶〜


見当識という言葉をご存じだろうか。
見当識とは、自分を取り巻く環境の中で、自分が置かれた状況を正しく認識する能力のことである。
すなわち、時間の流れの中で「今という時」を感じ、自分が存在している「場所」を知り、さらに、周りの人と自分との間にどのような関係が成立しているのかを正しく認識する能力のことを指す。
いうなれば、「時間」「場所」「人」をそれぞれ座標軸として、今現在、この世のなかで自分が存在しているその1点を認識できる能力とも言える。



認知症の進行につれて、見当識は次第に失われていく。
そうなれば、なじみの場所で、なじみの人に囲まれているにもかかわらず、見ず知らずの雑踏の中に突然おかれたような、頼りなく不安な感じを四六時中抱えるようになっていくのではないか。
進行した認知症を患う老人の世界は、自分の立ち位置を見失い、今という刹那を漂う孤独な世界なのかもしれない。



そのような老人にとっての「自分の人生」とは、いったいどういうものだろう。
自分の生きてきた数十年間を確かに感じられるものが、はたして残されているのだろうか。



ペコロスの母に会いに行く』の監督、森粼東は、その答えを過去の記憶に求めた。



「どんな人生だったか」ということを振り返ろうとするとき、日記や手紙などの文章による記録、形となって残った功績、写真やビデオといった映像などという手段もあるが、人生とは、やはり、人の記憶の中に残るものだろう。
自分の記憶の中に残る自分の人生、そして、自分を取り巻く人たちの記憶に残る自分の人生。
それら自分にまつわる記憶のすべては、自分の人生のひとつの形といってもよいだろう。



認知症を患っても、過去の記憶は、長らく人の中に残る。
そして、たとえ新たな記憶を増やすことができなくなり、自分の存在すら不確かなものとしか感じられなくなったとしても、周りの人たちの中には、自分に関する記憶は残っていく。



森粼東は、登場人物の過去の数々の記憶をフラッシュバックさせ、積み重ねることで、認知症を患った老人の人生を丁寧に周到に描いていった。
認知症への対応をめぐる家族の戸惑いを描いた作品は数あれど、認知症の老人の人生とその家族の関わりを描いた作品は、少ないように思う。
「記憶」に拘り、認知症を患った老人の人生そのものに真正面から取り組んだ『ペコロスの母に会いに行く』は、森粼が自身の認知機能の衰えを自覚しているからこそ撮れた映画なのかもしれない。
この映画は、記憶が去り行く寂しさのなかで、「自分の人生の価値はどこにあるのか」、「認知症の老人の人生の価値はどこにあるのか」という、自らに投げかけた必死の問いに対しての、森粼東の答えのように思えるのである。



カンテラ祭りでの母を囲む一枚の写真は、せつなく、温かく、美しい。
それは、認知症ならではの、時空に縛られることのない記憶と見当識が生み出した至福の一枚のように思えた。



ペコロスを演じた岩松了の軽やかさ、若かりし頃のペコロスの母を演じた原田貴和子のひたむきな演技も心に残った。



最後になりますが、森粼監督を支えたスタッフの方々には、深い敬意を感じずにはいられません。
本当に良い映画を有難うございました。
そして、『キネマ旬報』邦画年間1位、おめでとうございました。


(文章の内容の1部を1月12、13日に修正、加筆致しました。)

 忘れてはならないこと


様々な物議をかもして、金賢姫が韓国へ帰って行った。
めぐみさんが何匹か猫を飼っていたことや、チヂミでおもてなしをしたといったような僅かなエピソードを一所懸命に語る横田さんご夫妻のお話には、胸に込み上げるものを感じた。「安心した。」とさえ語るご夫妻の表情には、うっすらと微笑さえ浮かんでいるようにも見え、それがかえって、第三者には測り知ることのできない、拉致がもたらした空白の期間の重たさを滲ませていた。
横田めぐみさんの北朝鮮での生活が恵まれたものではないくらい容易に想像される。金賢姫によって語られたことが真実かどうかも分からない。
横田さんご夫妻も、十分承知された上でのことと思う。そして、金賢姫が一度しかめぐみさんに会っていないという事実は、どれほどご夫妻をがっかりさせたことだろうと想像するに難くない。
それでも、娘が北朝鮮で少しでも自分らしい暮らしを送れていたことを願う。僅かなエピソードにも、その痕跡がないかと追い求める。突然、家族の絆を断ち切られた親の、ひたすら子を思い続ける気持ちが滲み出た微笑であった。
私たちは、日本という独立国家で拉致という北朝鮮の国家的犯罪があったことをけっして忘れてはならない。そして、今もなお、拉致された肉親の生存を祈り、ひたすら帰国を待ち続けている人たちの気持ちから目をそむけてはならない。
哨戒艇の沈没が当然俎上に上がるASEAN地域フォーラムを前にしての時期であったことや、前後して、田口八重子さんの生存を窺わすような新たな情報が韓国サイドから伝わってくるといった、韓国の外交戦略が色濃く見える来日であった。そして、どのような外交上の取引があったかは分からないが、大韓航空機を墜落させたテロリストに対して、VIP待遇でもてなすのは如何なものかという意見もメディアを賑わせた。
その通りだと思う。けれども、私たちが忘れてはならない大切なことが、そういった意見に、ともすれば、かき消されてしまいそうになったことが残念でならない。そして、メディアに登場する数多のコメンテーターならまだしも、(民主党に点数稼ぎの思惑があったかどうかは別にして)金賢姫への待遇を声高に批判することで党利党略に終始した政治家がいたことには深い失望を感じた。
「20年以上前の情報しかもっていない金賢姫の来日に意味があるのか。」
市井の人のみならず、拉致被害者家族の中からでさえ、そんな声が聞こえてきたこの度の来日。拉致被害者に今もなお対面できていない家族の内で続いていることが、帰国を果たした一部の家族の内では終わりつつあるのかもしれない。

拉致を風化させてはならない。

 地域で生きていくということ


慣れ親しんだ土地で生涯暮らして行こうと思うとき、歳をとるにつれて、いろいろな問題があることに気がつく。
毎日の食事は、どうするのか。どこへどうやって買い物に行って、誰が作って、配膳をして、後片付けをするのか。洗濯は?掃除は?庭には草が伸びてきている。近所の公園や川の堤防の掃除の当番はどうする……?
元気なうちは問題にならないことも、体の自由がききにくくなったり、記憶が曖昧になり物事の判断ができにくくなったりすれば、たちまち障壁となり生活の前に立ちはだかってくる。自分のことに限らず、ともに暮らす家族に問題が起こっても、同じことだ。
「家族仲良く助け合いながら、平穏無事に日々の生活を過す」というライフスタイルに重きを置いている人は、多くはないだろう。それだけに、介護の問題は、働き盛りの世代にとって大きな負担となっている。
自分以外の者の生活を援助しようとすれば、自分がやろうと思っていることが、そのぶんだけ犠牲になるのは理屈だろう。介護は、働き盛り世代の生活を直接に侵食する。介護から逃れようとしても、セーフティネットが確立していないことは、大きなストレスとなって重くのしかかってくる。
同居にせよ、別居にせよ、家族の中で役割分担がきちんと成立していれば、自立した生活を送れなくなったとしても、家族の援助を受けながら生活していくことは可能だ。しかし、現実には、家族の援助が期待できないまま、高齢者一人の世帯、高齢者夫婦のみの世帯、70台の高齢者が90台の高齢者を介護している世帯などが、私の働く地域ではどんどん増えてきている。働き盛りの世代が同居している場合でさえ、自分たちの日々の生活に窮々として、介護に時間を割く余裕が経済的にも、精神的にも、次第になくなってきているのを感じる。
要介護者のセーフティーネットという観点から考えれば、通所介護デイケア、デイサービス)や、訪問介護(ヘルパーによる家事援助など)などの介護サービスは、家族による介護の隙間を埋める役割を果たしてはいるが、裏を返せば、自立できない高齢者の介護が、100パーセント家族に委ねられる時間帯も存在するということになる。家族による介護力が弱体化している現状を考えると、「何も起こらないでくれ」と祈るような気持ちで通所サービスから家に送り届けることも珍しくない。家族による援助が破綻し、介護施設への入所も、在宅での生活もできない高齢者の増加は、介護保険などの公的な援助では既に支えきれなくなって来ている。
財源を確保し、新たなサービスを創設することで介護サービスの守備範囲を広げるのは、一つの方法だろう。だが、その財源の確保は困難を極めるだろうし、新たなサービスを受けるための介護度の認定の問題や、サービスを受けることで増額する自己負担の問題もある。
自立した生活を送ることのできない高齢者が、住みやすい地域を創ること。それは、これからの地域づくりに欠けてはならない視点だと思う。身近で、しかも金のかからないサービスを提供するシステムを創り出すためには、結局、地域に住む人たちが協力し合い、ボランティアとしての労力を結集することしかないように思われる。地域に住む人たちが連携して、町内会などを活用した組織作りを行うのである。
遠くに住んでいる家族を見守ったり、援助したりすることは、けっして容易ではない。かといって、呼び寄せて一緒に暮らすことは、なおさら難しい。考えようによっては、身近に暮らす高齢者を援助することの方が、簡単な場合はいくらでもある。「近くに暮らしている」ということが、生活の援助にはなにより大切なのだ。
地域住民相互間の連携をどのように作るか、あるいは、他者の個人情報や生活そのものへの介入がどこまでできるか等といったクリアすべき困難な問題はいくつもあるが、けっして不可能なことではないようにも思われる。
人はみな歳をとり、やがて老いていく。どこの地域に住んでいようと、早死にしない限り、それは誰しもが、いつかは直面する問題なのだ。私たちは、自分たち自身が直面している問題に、当事者としての自覚を持って、真摯に立ち向かわねばならないだろう。