『万引き家族』〜家族とはなんだろう〜

安藤サクラが尋問されるシーンを観ていて、あるフレーズを思い出した。
「いろいろ事情があるんだろうよ……」
伊集院静『大人の流儀』に収められている『妻と死別した日のこと』の冒頭の一節である。

伊集院少年と彼の弟が、夕闇迫る路地で、女湯の高窓に張り付く男の姿を目撃する。
少年たちは大急ぎで家に帰り、目撃した一部始終を息せき切って母に告げるのだが……
「そう、覗いていたかね。それはよほどせんない事情があって、そうしているのよ。早く夕飯を食べなさい」
と、意外な返事が返ってくる。

〜人間一人が、この世を生き抜いていこうとすると、他人には話せぬ事情をかかえるものだ。他人のかかえる事情は、当人以外の人には想像がつかぬものがあると私は考えている。〜
(原文の一部を要約)

たとえて言うなら、この事情とは、人が生きていくうえでいつの間にか背負いこんでしまい、おろすことのできなくなった荷物のようなものだろうか。
それは、その価値を善悪、正誤、好き嫌い、快・不快…といった基準で図ったうえで、抱え続けたり、切り捨てたりの判断ができるような代物ではない。
ひとが生きてくうえでどうしても抗い難いものが、その人が抱えてしまった事情なのだろうと思う。



万引き家族』は、いろいろな事情をかかえた赤の他人6人から成る疑似家族のお話だ。
昭和の頃を彷彿とさせるような家で、「家族」のそれぞれは繋がりを求め、実際、繋がっていくようにもみえる。
が、6人皆揃っての海水浴を幸せのピークに、やがて「家族」は破綻に向かう……。
是枝監督が用意した様々な事情が、この疑似家族という共同体の存続を許さないのである。



万引きがばれて捕まったらどうするというだけではない。
子供が病気になったり、怪我をしたりすればどうする?健康保険証は?
本人確認は?住民票は?戸籍は?いろいろな届け出は?
年金収入がなくなればどうする?子供の就学は?
そもそも世帯ではないこの「家族」が現代の社会の仕組みの中で生き抜いていくことは、ちょっと考えただけでも、とても難しい。
さらに、作品では、「家族」をつくるお互いが、それぞれの事情にあえて踏み込むことをしていない。
お互いの干渉がないことは、自由で気楽である反面、隠れていた事情が明るみに出ることで気持ちの揺れも生じやすくなるだろう。
「家族」は、危ういタイトロープを渡っている。



事情を知る観客の眼には、「妹にはさせるなよ」と万引きを見逃す駄菓子屋のおやじ(柄本明)は好意的に映り、真っ当な正義を語りつつ安藤を責める池脇千鶴の言葉は薄っぺらく映るだろう。
子供までも万引きをせざるを得ないほどの貧困の存在や、正義面だけはするくせに、問題を解決しようとはしない世間に対する批判がここにはあるのかもしれない。
しかし、それよりも、様々な事情を背負って破綻していく疑似家族のドラマを観せられたとき、この疑似家族と本物の家族の違いはどこにあるのだろうと考えさせられた。
思いやりとか、お互いを分かり合おうとする努力とか、いろいろと思い浮かべてはみるが、なかなかピンとくるものが浮かんでこなかったところに、リリー・フランキーの「おじさんでいい」という言葉が引っ掛かった。
そうだ、この男は、「お父さん」と呼んで欲しかったのだ。
この男にとって家族とは、自分の心を潤すだけの存在でしかなく、自分の欲や事情などにかまわず愛を注ぐべき対象となるまでには至っていない。
自分たちの抱える様々な事情があったとしても、敢えて一歩踏み出し、「家族」を守る愛情、勇気を示すことは、彼には難しいだろう。
それを自覚してか否か、一連の経緯から自らの限界を感じた男は、「お父さん」から「おじさん」に撤退したのではないだろうか。
家族の一員としてふるまう際、「この行動は、この願いは、この思いは、いったい誰のためのものだろう……。」
そう顧みたとき、あるべき真の家族の姿が見えてくるように思う。



男の子を乗せたバスが、男からどんどん離れていく。追いつこうと全力で走る男から、さらにどんどん離れていく……。
家族になれない哀しみが伝わってくる、せつないラストシーンであった。