『カールじいさんの空飛ぶ家』〜夢をみるということ


どこのうちでも見かけられる光景だが、うちの娘も、小さい頃、よく一人遊びをしていた。「○○ちゃん」という架空の友達がお気に入りの様子だったが、相手がまるで眼の前に存在しているかのように振舞っていたのを思い出す。
それを眺めていると、娘の空想の中でしか存在し得ない「○○ちゃん」が、彼女にとっては、もっとリアリティーを持った存在のように見えた。つまり、娘にとっての空想の世界は、まぎれもないもうひとつの現実の世界として存在しているように思われた。
かように子供は、空想の世界と現実の世界を自由に行き来する。彼ら、彼女らには、二つの世界が別の世界であるということは意識されていても、どちらがリアルな現実であるかを認識することは、さして意味を持たないようにさえ思われる。
やがて、空想が現実と関連付けられる時、それは将来の夢となり、明日のあるべき自分の姿へと繋がっていく。とはいえ、その子供たちの夢の原型は、現実の世界の中で実現可能なものかどうかなど吟味されたものではなく、戦うヒーローであったり、大富豪であったり、華やかなディーバであったり、ピッチの王様であったりする。
こういった無責任ともいえる夢の存在は、子供らしい天真爛漫なのびやかさや活力と無関係ではあるまい。大人の夢は、日々の仕事や生活の中で、絶えず実現の可能性を検討する必要を内包している、いわば目標のようなものである。もちろん、それも、明日への活力を生み出すものであるが、それと同時に生みの苦しみを伴うものでもある。
では、老人の場合はどうだろう。過去にできていたことが次第にできなくなっていく身体の状況が、より良い明日のイメージを描きにくくしてしまうのではないかと容易に想像される。そのような生理的な状況の中で、老人が、今日を生き、そして明日を生きていこうとする活力を次第に失いやすくなるのも、無理はないだろう。


カールじいさんの旅は、亡き妻の夢を叶えようとした、ロマンティックな愛情に溢れた旅ではあるが、厳しい現実との軋轢で自分の居場所をなくしたあげく、心地よい過去の思い出に逃げ込むことで自身のアイデンティティーを見出そうとした、後ろ向きの感傷的な旅でもある。少年と犬をお供にしての冒険の旅が、じいさんをどう変えていくか。そこが、見所だと思う。
例によって、エエもんとワルもんの争いに、イロもん的なキャラクターを絡ませることで盛り上げていくピクサーお得意の冒険活劇である。そして、これまた例によって、実に見事な職人芸的ともいうべきアニメーションも見せてくれる。
カールじいさんの空飛ぶ家』は、古典的なストーリー構成と計算されつくした映像を器として、「夢をみること」という深いテーマを盛った、まさにピクサーの王道を行く素晴らしい作品だと思う。私自身も、自分の老後について考えるとともに、「自分の仕事を通して、高齢者の方たちに『今日を生き、明日を生きようとする活力』を与えるために何をすればよいか?」というテーマについて、あらためて考えさせられもした。
とりわけ、これから老後を迎えるだろう年齢の方に、ぜひ観ていただきたい作品である。


<おまけ>
カールじいさんの空飛ぶ家』や『アバター』では、3Dが話題になっている。が、確かに3Dは、映像に奥行き感じさせることで新たな効果を与えてはいるものの、それ以上のものでもそれ以下のものでもないというのが、率直な感想である。
カールじいさんの空飛ぶ家』の魅力は、画面に繰り広げられるひとつひとつの絵の構図、キャラクター、タッチ、色、それをつなぐ動きの素晴らしさであり、そのストーリー性であると思う。『アバター』の魅力は、イマジネーションの洪水のような世界を構築し、それを映像として見せたところにあると思う。そして、これら二つの映画の魅力は、3Dであろうと2Dであろうと動じることのないものだと私は信じている。