バンクーバーとトリノ〜女子フィギュアに思う〜


バンクーバーで演技を終えた浅田は、「悔しい……」と涙で言葉を詰まらせた。

キムヨナと浅田真央。N0.1の座をかけての二人の戦いは、ジュニア時代にまで遡る。これまで浅田は、敗れたときでさえ、王者としての矜持を持ち続けていたように見えた。
金メダルを逃した悔しさや自分のベストのパフォーマンスができなかった悔しさはもちろんあっただろう。だが、バンクーバーでの結果は、キムヨナこそN0.1だという事実を、初めて浅田に受け入れることを迫っているかのように、そして、その苦しさから浅田が涙を流しているように思えてならなかった。バンクーバーでの悔しさは、世界選手権に勝った今でも、消えることはないだろう。


フィギュアスケートが競技スポーツである以上、その演技は、採点という手段で定量化されねばならず、そして、その基準は、技の難度に準じた厳格なものでなければならない。一方、コンビネーションやシークエンスを含めた技の難度に優劣をつけたり、ましてや、難度の高い技が失敗に終わった際の評価をどうするかなどといったりしたことに関して、万人の合意をとりつけることは、とうてい困難な問題に違いない。
幸いなことに、バンクーバーでは、ライサチェクプルシェンコより優れた演技をし、キムは浅田よりも優れた演技をした(ように私には見えたし、世間でも概ねそのような評価だったと思う)ので、採点結果に従った表彰台での順位は、プルシェンコがどう言おうが、妥当なものに思われた。
だが、トリノでは、現行の評価基準の持つ欠陥が露呈されてしまう。浅田のフリーの得点がキムのフリーの得点を下回ったのは、素人目にも陳腐に映った。採点基準の問題は、フィギュアスケートの競技スポーツとしての根幹を揺るがしかねない問題であるように思われる。


現行の採点基準が大きな問題を抱えているのは確かだが、たとえどんな採点基準であろうと、それが公にされた上で大会は開催されていく。高く評価されたいのであれば、自分の技量に応じたエレメンツを上手に取り入れ、高得点の出やすいプログラムを作成していくしかない。
私は、採点基準に関して詳しくはないが、トリノでの結果を見れば明らかなように、キムのプログラムは、どうも高得点を叩き出しやすいようだ。だとしたら、浅田陣営は勝てる戦略を見誤った、あるいは、そういった戦略を取らなかったか、取れなかったというしかない。
現行の採点基準の下、今のような演技構成で戦うならば、今後は長洲にも勝つのは難しくなるだろう。浅田も、それに関しては十分に承知しているようで、「ルッツや3回転−3回転も、練習し取り入れたい」「明るい曲も滑りたい」とトリノから帰国してのインタビューに応え、暗にタラソワの路線を否定した。


いろいろと議論はあるだろうが、浅田の『鐘』というプログラムは、曲の世界をみごとに表現した完成度の高いプログラムだと個人的には感じている。確かに、曲調は重たく、陰気と言えないこともないが、その暗いメロディーから沸々とわきあがってくる祈り、情念の昂ぶりを、切れのあるスケーティングが伝えてくる。力強いプログラムだと思う。
特に、終盤の切り返しの多いステップの部分は見応えがあり、このプログラムの白眉と言ってもいい。バンクーバートゥループを失敗した後に見せた浅田の終盤の演技には、まさに鬼気迫るものを感じた。
浅田には、浅田の個性があり、キムにはキムの個性がある。競技である以上、競技者や観衆が勝負に拘るのは当然のことだとは思うが、そこに表現されるものを味わうこともフィギュア観戦の醍醐味といえるだろう。彼ら、彼女らは、競技者であるとともに表現者でもあるのだから。
そういった意味では、『鐘』は、居並ぶプログラムの中でひときわ異彩を放っていた。そして、苦戦の末、オリンピックイヤーの今季になってようやく、明るく天真爛漫な浅田のスケートに新たな魅力を加えることができたように私には思えた。
『鐘』で勝負をかけたことは、戦略的には失敗だったかもしれない。けれども、この『鐘』という楽曲にこだわり、妥協のないプログラム(ルッツからフリップへの変更を余儀なくされたが、プログラムの完成度に大差はないだろう)を創り上げたタラソワの表現者としての力量は、大いに賞賛されるべきものであると私は思う。