『グラントリノ』〜人の生きる姿をきめ細やかに描く


次の仕事の段取りなどを考えながら、何をするでもなく勤務先の敷地を歩いていたとき、すぐ傍らを燕がツーと滑っていった。はっとして眼で追うと、病棟の車寄せの軒に巣があるのが見えた。雛がいるのか、ピィピィと声が聞こえてくる。耳を澄ますほどでもない、十分な音量なのに、今日までこんなところに巣があるのには気付かなかった。
周りに気付かれるでもなく、それでも確かに燕の生が営まれている。さらに多くの生が、気付かれることなくひっそりと、それでいてしっかりと、私たちの周りで営まれていることをあらためて意識する。
ひとの人生にしたって、似たようなものだ。それぞれの人にそれぞれの人生がある。その殆どが、お互い交わることなくそれぞれ通り過ぎていく。
そんな中で人と人が出会うとき、そこに至るまでにお互いが過してきた大切な時の流れがあったということを意識したり、お互いの人生が偶然交錯した幸運に感謝したりすることは、きっと必要なことなのだろう。
燕の巣を眺めながら、今年から京都で暮らしている息子のことを考えていた。
別々に暮らすようになって、彼の父として私が振舞わなければならない場面は随分と少なくなった。というより、ここ数年、息子が成長し自立してくるにつれ、父として何かしてやらなければならないということは、殆どなくなって来ていた。それでも、お互い顔をあわせるとき、私は彼の父であり、彼は私の息子という役が当然のように割り当てられる。お互い別々に暮らすようになって、それがなくなったというだけのことかもしれない。
あと数年もすれば、娘も家を出る。子供たちがそれぞれ所帯を持つまでには、まだしばらくあるが、その後、私と妻は親としての役割を実質的に終えることになるだろう。親として生きてきた部分は、これまでの生活の中でけっして小さくはなかっただけに、その後のことも、それなりに考えておく必要を感じ始めている。
私には、これをしたい、あれをやってみたい、という欲はあまりない。歳をとって仕事を離れると、家の中に閉じこもってごろごろしているうちに、身体的にも精神的にも機能がどんどん衰えていくタイプなのかもしれない。
面白いことに、自分のためにはあまり積極的に行動できなくても、他人のためならば、結構一所懸命になれるところがある。そういえば、私が煙草をやめたのも、自分の健康のためなどではなく、娘からやめてくれとせがまれたからだった。仕事にしたって、そういう側面があってこそ、成り立っているところもあるように思う。おそらく、人という生き物は、他者に愛情を注ぐことで充足感を得たり、他者と関わることによって、自分の存在価値を確かめたりしたい生き物であるのかもしれない。
これからは、妻とお互い支えたり支えあったりしながら生きていくことになるだろう。そして、それは取りも直さず、相手を支えることで自分を支えていたり、相手から支えられることで相手を支えていたりすることにもなるのだろう。割れ鍋に綴じ蓋のような私たち二人の関係だが、相手がいるということの有り難さにはあらためて感謝したいと思っている。


『グラントリノ』は、如何にして人生に幕を引くべきかを模索する老人の物語である。苦い思い出に満ちたそれまでの人生を丸ごと受け入れつつ、自分の気持ちを偽らず真摯に生きようとする主人公の姿が胸を打つ。役者としても、監督としても、間違いなくクリント・イーストウッドの最高傑作だと思う。
ひとは消えても、残されたひとのなかにその姿をとどめる。そして、日常は、昨日と同じように今日も明日もまた過ぎていく……。
グラントリノが走り去った街を、淡々と定点カメラで捉え続けるエンドロールが、深い余韻をしみじみと残す。