『ぐるりのこと』を観てぐるりのことを想う


「今日はどうだった?」
映画を観て帰ると、いつも妻がこう尋ねる。
妻は、どちらかといえば、家でごろごろしながらTVドラマを観るのが好きで、面白い映画と聞けば自分も……、というところはない。どうも映画の内容よりも私が楽しんできたかどうかが気になるようなのだ。変な奴である。
私も私で、面白かった時は、妻の興味があろうとなかろうと、映画の感想を勝手に喋る。ことあるごとに喋る。聞いて欲しいので喋る。自分本位と言えば、そう言えないこともない。


さて、『ぐるりのこと』である。
「ぐるり」とは、くるりでも、グリルでも、ドリルでも、グリとグラみたいなものでもない。「周辺」のことである。このブログのカテゴリーにもある「わたしの周りで」の「周り」のようなものと思っていただけばよい。
『ぐるりのこと』では、中年へとさしかかった、とある夫婦の周りの出来事が時系列で描かれていく。
自宅、夫の職場、妻の職場、兄夫婦の家、妻の実家……、夫婦を取り巻く様々な場所に場面を移しながら、小気味よくエピソードが積み重ねられる。法廷画家という夫の特殊な職業柄、法廷場面も登場するが、それ以外はとことん日常的な出来事である。が、その一つ一つは、夫婦にとって節目にあたるとても重要な出来事でもある。
それぞれの出来事を通じて、夫婦の心のありようが微妙に移り変わっていく。場面場面でそれがじんわりと伝わってくる。淡々とした語り口だが、実に繊細で周到な演出により丹念にエピソードが編まれていく。


うちの妻は片付けができない。とんでもなくできない。
私は、ものがゴタゴタある部屋や散らかった部屋が大嫌いで、妻の片付けの能力にも大いに不満はあるが、妻のことが嫌いなわけではない。
妻に言わせれば、私はひとをあまり褒めないらしい(ちなみに仕事ではよく褒めているつもりです)。「あなたは褒めないうえに、ひとのできないところばかり指摘する」と言う。片付けている最中にもぐだぐだと不満を口にする私に、「やる気をなくした」と中途半端で投げ出してしまうことも多い。
けれども、腹を立てたり呆れたりしていても、私のことを嫌いなわけではない(と思う)。
随分部屋も散らかってきたなぁ、そろそろ片付けないと限界だよなぁなどと、映画を観ながらぼんやり考えていた。


女好きではあるものの妻への恋愛感情はすでになく、何かにつけ他の女性が気になる夫(リリー・フランキー)。夫がよその女性にちょっかいを出すのを我慢できず、プライベートでも仕事でもこうあるべきと信じることをきちんと守り通そうとする妻(木村多江)。
恋愛感情がすでに失せてしまった夫婦生活に夫は何の期待もしていないように見え、かつての恋愛感情をもう一度夫婦生活に呼び起こそうとしている妻は苛立ちを隠せない。ふらふらした夫とイライラした妻……。


夫婦生活が恋愛感情で成り立たつのであれば、うちの夫婦などはとっくの昔に終わっている。
一緒になって20年近くになるが、毎日、お互いの違いを思い知らされながら生きてきたような気がする。こんな奴かと思えば、また違った面が現れるといった繰り返し。共感できる部分もあれば、とんでもなく嫌な部分もある。
そんな二人の間に恋愛は成り立つはずもないが、それでもやっぱり妻のことは愛しく思っている。
当たり前の話かもしれないが、夫婦の間の愛情は、恋人の間のものとも、親子の間のものとも違っているように思う。いうなれば、自分との付き合いに似ているのかもしれない。好きな面も嫌いな面も全て抱えながら、ときには楽しく、ときには仕方なく、それでも一所懸命にともに生きる。それが夫婦のような気がする。
きっと、恋愛のない生活に満足できない人は、別の異性のもとに走るのだろう。


何かにつけよその女が気になったり、自分のいいたいことも言えずへらへらしたりしていた夫が、嵐の夜を境に、それこそ必死になって妻を支えようとする。誰にも受け入れられていないという疎外感と罪の意識に苛まれていた妻も、その日を境にようやく夫の深い愛に気がつく。
夫と妻の微妙な心のひだが、さりげない表現ではあるが、それまでのそこかしこの日常生活のシーンやときには法廷シーンにも丁寧に積み重ねられてきているため、このシーンが唐突ではなく説得力を持って確かに伝わってくる。


木村多江がいい。
華やかさに欠ける印象が彼女から主演の機会を奪ってきたようだが、この作品のテーマはむしろ彼女の地味さを必要としていた。満を持しての初主演だ。女優ならば嬉しくなかろうはずがない。彼女の記念碑的な作品になると思う。
素のキャラクターを上手く生かしたリリー・フランキーとは対照的に、後半での別人のように生き生きと立ち直った妻を演じる表情にプロフェッショナルとしての確かな演技力を感じる。特にお風呂のシーンでの嬉しそうな表情などは、「恐るべし、木村多江」と感じさせるに十分であった。
前述したように、リリー・フランキーは素のキャラクターを自然に表現できていたと思う。ことさらに芝居をしようとしてこけることなく、素の自分の味を素直に表現できるのは、それはそれで役者としての非凡な才能と言えよう。
リリーさんの持っている、なんとなくゆるい感じとそこはかとなく漂うエロい感じが、うまく夫のキャラクターに生かされている。


日常生活を題材とした小品にありがちな、いじけたところがないのもいい。全篇が極めて健全な倫理観で貫かれていることが、作品を重さから逃れさせている。「生きていくのは素晴らしいことだ」というテーゼが、法廷シーンや日常のシーンの端々にも感じられる。


西日の射すベランダで、陽の光をいっぱいに吸いこんだトマトを写生する妻とその妻に寄り添いトマトにかぶりつく夫。にこやかに会話がなされ、トマトの汁が垂れていく……。
充実した生命にあふれたシーンが鮮やかに心に残る。


映画レビューが思わず2回続くことになったが、書いておかなければと感じさせるに十分な力を持った作品だった。
今年一番の佳作かもしれない。