『西の魔女が死んだ』


学校に行くことを拒んだ女子中学生まいが、自然に囲まれた山荘でおばあちゃんと一緒に魔女修行と称する生活を始める。魔法を修得するわけではない。魔女修行とは、即ち、「自分で決める力、決めたことをやり遂げる力」を養うこと。おばあちゃんとの生活で、まいは生き生きとした力を次第に回復していく……。


梨木香歩の小説『西の魔女が死んだ』が映画化された。
物語に流れるゆっくりとした豊かな時間や物語を包む爽やかで優しい癒しの空気など、原作の味がかなり忠実に再現されていると思う。
なかでもおばあちゃん役のサチ・パーカーが醸し出す気品が、そのまま作品全体に気品を与えている。素のサチ・パーカーは、おばあさんでもないし、失礼ながら、それほど上品にも見えない。だが、素敵なおばあちゃん像を創り上げたことが、まず映像としての作品を成り立たせている。
なによりも、彼女の声がいい。甲高く響くところの全くない、ゆったりとした余裕を感じさせる声のトーンは、聞くものの心を落ち着かせる。そして、それが作品に流れる雰囲気を演出するのに大きく一役買っている。
キム兄演じるゲンジも、存在感があった。美しい自然に囲まれた場で生活をしながらも世俗にまみれ、ぶっきらぼうで他人を寄せ付けぬところのあるゲンジ。まいが生理的に受け入れることのできないゲンジという人物のキャラクターとその生活の造型は、原作を忠実に映像化しただけといってしまえばそれまでだが、おばあちゃんの生活に対して鮮やかなコントラストがつけられていたと思う。
ひとは心地よいものだけに囲まれて生きることはできない。おばあちゃんとの心地よい生活に、なにかと侵食してくるゲンジを排除しようとする、まいの心の葛藤が効果的に描かれるためにも、このコントラストは重要だ。


いろいろな決断をしながらひとは生きている訳だが、生きていく上での決断は、大きく二つに分けられる。
一つは、他者との関わりのなかで、あるいは、仕事や学校生活を送っていくなかで迫られる受身的な決断。二つ目は、「自分がどう生きるか」という命題の下に自分が何をするかを決めていくという能動的な決断。
そして、決断が実行に移されるには、さらに二つのことが大切になってくると思う。
ひとつは、どういう目的を持ってその決断を下すかということ。ビジョンが明確でない決断は、やがては方向を見失って立ち消えやすい。もうひとつは、決断したことが引き起こす「結果に自分が責任を負うという覚悟」だと思う。自分自身を振り返ってみて、数多くの決断が守られずに消えていったのは、この覚悟が不足していたのではないかと感じている。
自分のための人生を送ろうとするとき、自分の人生を楽しもうと思うとき、能動的な決断を下し、それを実行することがとても大切なのではないだろうか。そうすることで初めて、ひとは生き生きとした活力を持って生きることができるように思う。
魔女修行と称したおばあちゃんとの山荘生活を通して、「自分で決め、やり遂げること」という生きるために最も必要なことを学んでいくまいの姿が作品では淡々と描かれていく。
もちろん街の中でも、生きていく力を身につけることはできる。しかし、社会から遠ざかった自給自足に近い山中での生活では、一つ一つの決めごとや行動そのものが、即、生きていくということそのものになるという点で、どう生きるかというテーマと日々の生活の過しかたが密接に結びつきやすい。


他方、生きていく上では他者との関係が極めて重要であるにもかかわらず、この山荘生活において、おばあちゃん以外の他者との繋がりは甚だ希薄と言わざるを得ない。現代の少女が、山荘生活になじめるかどうかという問題は別にして、まいの周りには携帯電話もPCもない。コミュニケーションツール(TVやゲームも、話題づくりという点ではそういえるかもしれない)を必要としていないまいの姿は、奇異にすら映る。
繋がりから隔絶されることへの不安・葛藤がまいからは感じられない。繋がりを拒んでいるようにさえ見える。まいが感じるおばあちゃんとの生活の心地よさは、取りも直さず、いろいろなものからの繋がりから開放された心地よさなのかもしれない。
「わたしはもう学校へは行かない」と心に決めて、おばあちゃんの家にやって来たまいには、「自分で決めること」は、既にある程度可能であったと言える。むしろ、自分の世界と他者の世界との折り合いをつけることが、まいにとって重要な課題だったのではないだろうか。


まいの抱える問題は、ゲンジを拒む気持ちに如実に表れる。
ゲンジへの疑念が膨らむ一方となり、ゲンジの世界が自分の世界に侵食してくることがどうしても許せなったまいの心は乱れ、おばあちゃんに救いを求める。が、そんなまいの心をおばあちゃんは受けとめてくれない。
信じるに足りる根拠はあるものの、証拠のない憶測に囚われるまいに、おばあちゃんは怒る。おばあちゃんにしてみれば、自分には分かっていてまいには分かっていない真実をどうしても伝えたいからだ。自分が正しいと思う方向にひとを導くことのできない苛立ちが、作品の中で初めておばあちゃんを襲う。
しかし、正しいことを正しい言葉で相手に伝えても、相手の心には届くとは限らない。大切なのは、相手の心が言葉を受け入れることができる状態にあるかどうかだと思う。相手の心を大切に思う気持ちこそが、言葉を相手の心に届かせることができる。
その時まではいつも、おばあちゃんの言葉はまいの心に届いていた。それは、まいの心を尊重し、信頼する気持ちが伝わっていたからだろう。
正しい方向へ導こうとするあまり、まいを初めて管理しようとするおばあちゃん。すれ違う心。
人は自分で決めたことしか守れない。人が人を管理することはできない。
まいは、おばあちゃんと激しく対立する。
ここでまいが自分の気持ちをストレートにぶつけられたことは、魔女修行を通しての成長を物語る出来事であり、むしろ歓迎すべきことのように思われる。まい自身の心の成熟と自己の感情表現が出来たことの顕れと考えられるからだ。
けれども、相変わらず自己と他者との折り合いや繋がりといった問題を残したまま、まいはおばあちゃんと別れ、両親の元で再び学校へ通うようになる。
その後、どのようにまいがこの問題を解決したのか、作品では触れられていない。この問題に関しての消化不良は作品としての完成度を下げているように感じられ、甚だ不満が残った。(『西の魔女が死んだ』の文庫本には、もう一話『渡りの一日』という短編が収められていて、そこには新たに学校に通うまいの姿が描かれている。この短い物語は、この問題をある程度補完する目的で書かれているように思われる)。


生と死という問題も、この作品の大切なテーマだ。
自然の中での暮らしは、住むものに知らず知らずのうちに生命の繋がり、広がりを教えてくれる。
鶏の産む卵や採取した植物などを食べながら自然の恵みに感謝して暮らす日々、おじいちゃんからの恵みさながら群生する野苺やおじいちゃんが好きだった花との偶然の出会い、ちょっと前まで生きていたものの生々しい死など……。日々の自然の変化に気づくだけにとどまらず、そこで様々な体験をしていくことで、まいは生と死について想いをめぐらすようになる。
おばあちゃんの死という体験がまいにとって大きなものとなるだろうことは想像に難くない。そして、ラストのメッセージはこの物語を上手く結んでいるとは思う。
しかしながら、生命が生まれ、やがて還っていく場所としての自然、そんな自然の持つ神秘的で大きく包み込むような力を作品でもっと表現して欲しかった。そんな自然の中でのひとの営みが、美しい自然に囲まれた心地よいslow-life的な生活の描写にとどまってしまっているように感じられたのはちょっと残念に思った。