どうして時代劇か?


やらなければいけない仕事がどんどん溜まってきている。地道に一つずつ片付けていけばそれで済むことなのだが、山積みになった仕事が限度を超えてくると、ますますやろうとする気力が萎えていく。
以前ihr442さんと約束した映画の感想をまだ伝えていないことも気になっている。ブログも更新したいのに、できずじまいになっている。どちらも期限も義務もない作業なのに、「早くやらなくては」と勝手に思い込んでいる自分が哀しい。重荷に感じる必要はないことは重々承知しているつもりだが、心が重たくなるのはどうしようもない。
馬鹿だねと思いつつ、ショボい感想でも無理やりエントリにすれば、プライベートな仕事が二つ片付くではないかと自分に言い聞かせながらこれを書いている。
ということで、『茶々 天涯の貴妃』の感想になる訳だが、ショボいものしか書けそうにないので、もう一本時代劇ということで『椿三十郎』の感想を組み合わせることにした。大上段に大きく振りかぶって「どうして時代劇か?」という大仰なタイトルをつけてはみたものの、中身は単に時代劇映画2本の感想を組み合わせただけのものだ。


毎度のことながら、旬な映画のレビューではないので恐縮ですが(嘘をつきました。すみません。本当は恐縮などぜんぜんしていません。だから毎度のことになります(笑))、DVDを観る時の参考にでもなれば、幸いです。


茶々 天涯の貴妃』〜どう劇的に描くか。


浅井茶々(豊臣秀吉の側室。淀君あるいは淀殿といった方が通りはいいかもしれない)の生涯を描いた歴史ものである。
時代劇の題材として歴史ものを撮るとき、「歴史という逆らうことができない必然の流れの中で主人公がどう生きたか」ということが演出のテーマに選ばれることが多い。
その時代の社会制度とか観念といった、時代に固有の背景に拘束された中で主人公がどう生きたかということにまで範囲を広げれば、一昨年ヒットした『武士の一分』をはじめ、多くの時代物もこの範疇に入ってくるだろう。
この範疇の作品が感動を生むためには、二つの要素が必要だ。一つは、抗うことができない大きな必然的な流れ(歴史の流れであるとか、社会の制度や通念といったもの)があり、主人公がその存在を自覚しているということである。そして、たとえ行き着く先に破滅が待っていようとも、その必然の流れを自覚した上で、主人公が強い意思を持ってその状況の中を生きぬく姿が描かれていることである。


そういった視点からこの映画を観た場合、大いに不満が残った。
映画の冒頭で、父―長政の頭蓋骨に注がれた酒を茶々が飲み干すというシーンがある。茶々が「何があっても家族を守りながら生き抜いていく」という自らの人生に課せられた使命を覚悟する重要なシーンだ。
この場面で、信長との絡みは十分に描かれているものの、秀吉の存在感がひどく希薄であることが気になる。
秀吉との関わりは、茶々の生涯を語るうえで避けて通ることが出来ない。物語のその後の展開を考慮すれば、この光景を目撃した秀吉の様子、心境などを窺わせることにもっと時間が割かれるべきではなかったかと残念に思う。


さらに物足りないのは、映画後半での茶々の描き方だ。彼女の想い、生きる姿勢がいまひとつ明確ではない。
茶々が何を考え大阪冬の陣、夏の陣を戦ったのか。まず、そこのところを煮詰めることから始め、映画全体の骨格を組み立てていく必要があったのではないだろうか。
秀吉を愛していたのか、いなかったのか。家族が大切だっただけなのか、豊臣家全体を守ることが大切だったのか。権力志向があったのか、なかったのか……。茶々の像をそのようにさまざまな点から一つ一つ検討して創りあげる。そこから逆算して前半部からの演出を組み立てていくべきではなかったか。


冒頭のシーンで、信長に「天下を取る」とまで言わしめた茶々は、大阪夏の陣ではジャンヌダルクをイメージした甲冑姿で陣頭に立つ。
時代考証を無視したこの演出(私は演出の意図が時代考証よりも優先されるべきと考えている。)には賛否両論あるだろうが、和央ようかの甲冑姿は凛として美しく、作品の中では最も印象に残った。
この和央ようかの甲冑姿を観ていると、ひょっとして監督は、「女性でありながら天下を取ろうとし、そして破滅していく人物」として茶々を描きたかったのかもしれないとも考えてみた。
しかし、たとえそのような意図があったとしても、茶々を天下人を目指す女性として浮かび上がらせようとする一貫した演出は見出されず、結果、甲冑姿は単なる思いつきととられても仕方がないだろう。


合戦シーンは激しく迫力がある。よく撮れているとは思うが、激しく噴出す血しぶきには残虐さしか感じなかった。浅井三姉妹を演じた女優の実年齢は知らないが、三女を演じた寺島しのぶは、演技はさておき、長女の和央ようかよりも随分と年上に見えるという点でミスキャストだと言わざるを得ない。エンドロールで流れるSoweluの歌は全くのミスマッチだ。


椿三十郎』〜時代劇の「お約束」を利用して個性的な主人公の魅力を描く


椿三十郎』の主軸となるのは椿三十郎というスーパーマンの活躍であり、彼のキャラクターや行動をどれだけ魅力的に描けるかということで勝負している映画である。
さらに、一途で純粋ではあるが経験不足で未熟な若侍たちが引き起こす浅はかな行動や、用意周到なようでいて間抜けな権力者たちの権謀術策をからめることで、作品にはコミカルな味付けがなされている。
このような作品は、別に時代劇である必要はない。例えば、TVドラマの『ハケンの品格』などは、かなり近い系譜の作品だと思う。
けれども、『椿三十郎』には、時代劇ならではの魅力がある。
それは、なんといってもチャンバラの魅力なのだろうと思う。チャンバラこそが娯楽時代劇の真骨頂であり、それゆえ、いかにチャンバラを見せるかが演出者にとっては最大の命題となる。
さらに、時代劇には、チャンバラ以外にも時代劇ならではのもの、つまり、時代劇の「お約束」といったものが存在する。
まず、行動の成否が命のやり取りに直結することは時代劇ならではのことで、それが作品に緊張感を与えている。さらに、時代劇では権力の構造が明確で分かりやすく、正義の実現を目的とした武力行使が容認されているのも「お約束」だ。
椿三十郎』は、チャンバラをどう見せるかにとどまらず、こういった時代劇ならではの「お約束」をストーリーの展開に上手く利用している作品だと感じた。


黒澤明の映画は好きだ。
何回も見返すほどの熱心なマニアではないが、一度は観たことがある作品は少なくない。『椿三十郎』も、大学生の頃、一度だけTVで見たことがある。取り立てて素晴らしい演出と感じるところはなかったが、飽きることなくストーリーが楽しめたという記憶はあった。
森田芳光による今回のリメイク作品は、変な表現だが、紛うことのない『椿三十郎』であった。
つまり、演じる役者については違和感を覚えることもあったが(後述)、作品そのものには殆ど違和感はなく、黒澤作品とほぼ同じ印象を受けた。ということは、取りも直さず、演出の基本線は黒澤のものを丹念になぞったということになるのだろう。
全く同じ脚本を使ったからだろうと思われる方があるかもしれないが、それは違う。
以前、三谷幸喜が脚本を書いた『3番テーブルの客』というTV番組があった。それは、1本の同一の脚本に週替わりで異なる演出家が演出をつけるという、ちょっと風変わりで実験的な番組だった。
三谷の脚本は、彼の作品にしては面白みに欠けるものではあったが、それでも結構楽しめる回もあれば、これが同じ作品かと思えるほどの無残な回もあった。『3番テーブルの客』は、映像で見せる作品の印象がいかに演出によって左右されるかということを実に見事に証明していた。
森田芳光が、黒澤と同一の脚本を用い、ほぼ同じ演出の流れで作品を作り上げた意図は分からず、下手な推測をするしかない。
役者だけをそっくりそのまま今の時代の役者で置き換えた時の黒澤作品がどんなものになるのか興味があっただけなのかもしれない。
黒澤作品の完璧さに対する尊敬とある種の降伏なのかもしれない。
リメイク版を作るに当たって、黒澤プロからの制約があったのかもしれない。


ただ、クライマックスの三十郎と室戸の対決シーンでは、新旧の作品の違いが際立ったものになった。
両者の刀が振り下ろされた後、激しく血が噴出すシーンは、おそらく黒澤『三十郎』のなかでも最も有名なシーンである。しかしながら、その演出の大胆さに驚きこそすれ、「公開当時、本当にこの演出が評価されたのだろうか?」と思ってしまうほど陳腐な印象が拭えなかったのを思い出す。
森田は、三十郎と室戸の刀が振り下ろされる直前、対峙する二人の背景に横一線に並んだ若侍を配した。それは黒澤の『椿三十郎』の中で、最も黒澤らしい構図で描かれた場面と寸分たがわぬ演出である。ここに森田の黒澤の構図に対する畏敬の念と、その直後の演出の違いを明らかに際立たせようという意思を感じた。両者の刃が相まみえてからのシーンは、この映画で唯一、森田芳光の監督としての自己主張が感じられる場面であった(森田『三十郎』での決闘シーンの演出は観てのお楽しみ)。
ひょっとすると、このオリジナルの演出を際立たせるためだけに、森田芳光はそれまで丹念に辛抱強く黒澤の世界をなぞり続けたのかも知れない。


渥美清と寅さん、西田敏行と浜ちゃん、田村正和古畑任三郎など、役者と切っても切れないキャラクターというものがある。
シリーズものではないが、三船敏郎椿三十郎もそういった関係にある。
そのような役者とキャラクターの密接な関係は、多くの場合、役者が役作りによってどのようなキャラクターを作り上げるかということに依っていることが多いように思う。
しかし、黒澤明は、三船敏郎という稀有な存在感を持つ役者をモデルに椿三十郎というキャラクターを作り上げたように思う。つまり、椿三十郎のキャラクターの魅力は三船敏郎という役者が本来持っているキャラクターの魅力そのもののように思われる。
リメイク版で最も気の毒だったのは、三船敏郎のためにオーダーメイドされた椿三十郎という服を着せられてしまった織田裕二だろう。織田裕二が懸命に椿三十郎になろうとするほど、三船敏郎の物まねに見えてしまう。
組織からはみ出した者、組織の枠に収まらない者という人物像は、織田裕二の得意とするところではある。しかし、彼の得意とするはみ出し者は、無謀なところを持ちながら、泥臭い懸命さ、ひたむきさを感じさせる人物であり、椿三十郎は、同じはみ出しものではあるけれど、強烈なリーダーシップを感じさせる人物である。
織田の演技には旧作を一生懸命に研究し役作りをした努力のあとが感じられ、けっして悪い出来ではなかったが、三船敏郎を超えることはできなかった。聞くところによると、森田芳光は「椿三十郎には、織田裕二しかいない」と強くその起用を望んだという。それならば、旧作の脚本をそのまま使ったり、演出を丹念になぞったりせず、織田の魅力を最大限に生かした新しい椿三十郎を創り出すべきであったと思う(リメイク版を製作するにあたって、黒澤プロからの数々の制約が出された結果、脚本と演出の制限が生じた可能性も考えられるが、それならば織田の起用はやはり断念すべきだったと思う)。


仕方がないことではあるが、時代劇をしっかりと演じることの出来る役者が少なくなったことは、寂しく思う。その点を補おうと、『椿三十郎』では、殺陣の見せ方として出来るだけ全身のショットを少なくして上半身のショットで見せるなどの工夫がなされていたように感じた。
時代劇にも捨て難いさまざまの魅力がある。リメイク版『椿三十郎』が、「時代劇も、まだまだいけるじゃないの」と感じさせてくれるだけのエンターテインメント作品に仕上がっていたことは大いに評価したい。