沖縄での集団自決に関する教科書検定について思うこと


太平洋戦争末期、沖縄で起こった集団自決に軍の強制があったか否かということで文科省教科書検定が問題になっている。
教科書によって表現はまちまちだろうが、概ね「日本軍が住民の集団自決を強制した」という記述が、検定を経て「住民は集団自決に追い込まれた」という記述に変更されたということらしい(注:私は文科省の公式な発表がどのようなものかは知らない。あくまでも、ここでの情報は、私が見聞きした報道を通じての情報でしかない)。確かに前者の表現だと軍が自決命令を出したと解釈されやすいし、後者の表現では追い込んだ主体が曖昧であり、どのような状況で集団自決が起こったかが捉えにくい。
沖縄戦は、本土攻撃までの時間稼ぎを目的とした日本軍の戦略にのっとって戦われたもので、戦略の意図を考えれば、硫黄島などと同じくそこに投入された戦力がただの捨石と化すことは十二分に承知されていた。硫黄島と大きく違っていた点は、沖縄には非戦闘員である住民が存在していたところだ。
しかしながら、渡嘉敷島で戦った日本軍関係者からの証言では、米軍との戦闘が始まった際、非戦闘員をどうしたらいいかについては全く対策も立てられていなかったし、その存在すら意識されていなかったようだ。そういった意味で、上陸してきた米軍を除けば、そのような戦略を立てた結果、住民の集団自決という悲劇を引き起こした日本軍の責任は非常に重い。


渡嘉敷島の集団自決について、最も事実関係を詳細に取材したと思われる『沖縄戦渡嘉敷島 集団自決の真実』(曽野綾子 著 WAC BUNKO)を読む限りにおいては、軍から「自決せよ」の命令が出たという確証は得られていないようだ。また、座間味島の集団自決については神戸新聞の取材(s.60.7.30、s.61.6.6、s.62.4.18)があるが、やはり軍が自決命令を下したという証拠は出ていない。
けれども、曽野氏の取材でも、古波蔵惟好村長や金城重明氏のように「軍からの命令で集団自決が始まった」と記憶している(証言からは、彼らにしても、軍の命令を直接聞いてはいないようだ)住民は存在するし、軍が民宿している間(米軍上陸まで渡嘉敷島では行われていた)、軍人と住民の間にどのような会話があり、それが住民の意識をどのように変化させたかを知る由はない。しかも、集団自決から生き残った住民の口は重く、何より集団自決を行った人々はその時点で亡くなっている。


私は自決命令があったかどうかを論じるつもりはないので、命令の有無に関してはここまでにしたい。今回の事件で私が感じたのは、異なる戦争の記憶がぶつかり合うことによって生まれる克服し難い齟齬についてである。


「軍が住民の集団自決を強制した」という表現は「軍が集団自決を命令した」ということを意味しているともとれるし、もっと広義にも解釈できないことはない。
しかし、「集団自決の命令がなかった、あるいは、あったかどうか明らかでない」という見解を「日本軍による強制はなかった」という見解に収斂させるのは、あまりに単純過ぎやしないか。
前に述べた日本軍の戦略上の問題に加え、米軍の捕虜となることは日本人として恥ずべきことであるという考えや、捕虜生活で味わうことになる数々の辱めに関する意図的な錯話、そして敗戦後の自決という選択肢のない選択などの情報が日本軍を通じて恣意的に広く流布されていたように思われるし、軍によって管理されるべき兵器である手榴弾を用いた自決も実際に試みられている。
それでも、(うまい表現ではないということを別にして)「軍の強制」という表現を広義の意味で用いているとしても、私はその表現が適切だとは思わない。
沖縄の人々と「本土」の人々では、戦争の経験のされ方が異なり、その被害者意識も異なる。そのため、同じ「軍」という表現に対して同じイメージを描くとは限らないと思うからだ。
「軍」という言葉を耳にしたとき、「本土」の人々がイメージするのは当時の国家権力の代表としての、抽象的存在としての日本軍であろう。けれども、沖縄では実際に沖縄に派遣されていた部隊であり、赤松部隊(渡嘉敷島)や梅澤部隊(座間味島)を具体的にイメージする人々も多いのではないだろうか。
その場合、「軍の強制」は赤松部隊や梅澤部隊という実体を持った集団、さらには、赤松隊長や梅澤隊長個人の犯罪的行為とみなされてしまう場合もあるだろうと推測してしまうのは、杞憂だろうか。少なくとも、赤松元隊長が慰霊祭の開かれる渡嘉敷島の地を踏むことができずに沖縄本島から引き返さざるを得なかった昭和45年当時、沖縄で赤松部隊を悪の権化と捉えていた人は多かったようだ。
戦後60年以上たった現在、沖縄ではどのような戦争の記憶が語り継がれているのだろうか。昭和45年当時のようなことはおそらくないとしても、宜野湾海浜公園での県民大会の熱気をみると心配にもなってくる。国家の罪を明らかな証拠もなく特定の集団や個の罪として糾弾するようなことは、けっしてあってはならない。


もし仮に私が検定を行う立場ならば、「軍が集団自決を強制した」という記述をどうしたかというと、適切ではないと考えながらも修正するような指導は行わない。誤った史実だとは考えないからだ。それが異なる戦争の記憶を持つものの間にどのような齟齬を生もうとも、残念ながら避けることのできないものだと思う。
「住民は集団自決に追い込まれた」という曖昧な記述で提出されても、同じ理由でOKだ。
今回の検定がどういった意図で為されたかということについて私は知らない。理由によっては許容できる場合も、できない場合もあるだろうと思う。
ただ、検定が沖縄での戦争の記憶への配慮を欠くものであったということと、もう少し表現を吟味して教科書を編纂してもらいたいということを強く感じた。
私は、圧力で検定をやり直すことは好ましいこととは思わないが、史実を丹念に拾い上げ、真剣に表現を吟味した上で検定をやり直すことは誤りではないと思う。


今回の検定がきっかけで、1年前くらいに読んだ『戦争を記憶する 広島・ホロコーストと現在』(藤原帰一 著 講談社現代新書)を思い出し、改めて読み返してみた。
戦争の記憶がつくる戦争観や歴史観の違い、アメリカの戦争観、日本の戦争観、戦争の記憶が生み出した戦後日本の思想の流れ、アジア諸国での戦争の記憶などがここにはとても分かりやすく説得力を持って書かれてある。
少し長くなるが、著者がこの本を書いた目的を引用してみる。


なんでこんなことになったのだろう。忘れてはならない。覚えるべきだ、覚えていろ、そんな荒んだことばの交わされるこの時代に、過去がどう覚えられ、意味づけられたのかを考えることが、この本のねらいだった。どう考えるべきではなく、誰が、どう考えてきたのかを考えること、つまり戦争の記憶が生み出した社会通念やイデオロギーを、歴史的・状況的に、相対化して捉える試みである。(『おわり』により)
ここでの問題は、どの戦争の覚え方が正しいかという選択ではなく、それぞれの当事者が当たり前だと考えている戦争の記憶と、そこから導かれた行為規範が、どれほど歴史的に拘束された存在であり、どれほどお互いに異なるかを、冷静な眼で確かめることだ。
 (『第一章 二つの博物館―広島とホロコースト』より)


経験のされ方、地域との関わり、個人の考え方などによって、記憶されるものや史実の捉え方に恣意的なものが混じることを避けることはできない。いま一度その事実を冷静になって考えるべきではないだろうか。異なる歴史の記憶を戦わせ熱くなる前に、ぜひ、若い人たちに読んでいただきたいと思う。


沖縄の集団自決の様子(前出『沖縄戦渡嘉敷島 集団自決の真実』に詳しい)は、なによりも戦争の不条理を物語る。沖縄の集団自決の問題を「軍の強制があったか否か」という問題だけに押し込めてしまうことは、むしろ戦争の不条理という問題を矮小化してしまうことになりはしないかと危惧している。集団自決に関わり生き残った人たちが責めを追うことにならない保障があるのであれば、その様を語り継ぐことが、本当は最も大切なことではないかと私は考える。