星野道夫の命日に生命について考えてみた


1996年8月8日、アラスカの自然を撮り続けた写真家 星野道夫が、取材先のシベリアでヒグマに襲われ命を落とした。
みずみずしく息づくアラスカの姿を写し出した星野の写真はどれも素晴らしいものであるが、アラスカで生活しながら綴られた多くの著述も、その写真にひけを取らぬほど深い味わいがある。星野の遺した作品はどれも、アラスカという過酷な自然の中で生活することで得た、生命についての深い示唆に富んだものである。


ふと、あるトーテムポールの前に来て、立ち尽くしてしまった。そのてっぺんから、トウヒの大木が天空に向かって伸びているのだ。かつてハイダ族は、トーテムポールの上をくり抜いて死んだ人間を葬っていた。目の前に立つトーテムポールがそれだった。遠い昔、トーテムポールの上に落ちた幸運な種子が、人の身体の栄養を吸いながら根づき、長い歳月の中で生長していったのだろう。 〜『イニュニック「生命」―アラスカの原野を旅する』より〜


人間も、動物も、植物も、個々の生命体には、それぞれ別個の独立した生がある。そして、それぞれの生命体は、異なる生命体を飲み込みながらその生を保っている。ひとつの生命が飲み込まれるとき、その行為によってまた新たな生が生じていく……。そんな共生の感覚に支えられた、生命の環というべき生命の連鎖。私たち人間一個一個の生命も、他の動物や植物一個一個の生命も、ひとつの大切な生命であり、そして、それは地球という大きな生命体の一部をなしているのだ。
星野の綴る文章には生命の哲学が静かに基調を奏で、写真には生命の輝きが息づいている。アラスカの自然とともに生き、獲物を狩るエスキモーやインディアンとの暮らしから悟られた真実の前では、一種敬虔な感動にうたれるとともに、死というものは、新たな生命の始まりなのかもしれないという気にさえなる。


星野は、アラスカという自然とひととの距離がとても近い場所で、生命の実感を手に入れることができた。しかし、生き生きとした自然から隔絶された文明社会のなかで暮らす私たちは、いったいどのようにしたら、一つ一つの種の生命を包み込むかのような大いなる生命を感じることができるのだろうか。人は死んでも土に還らず、墓場に埋葬されるだけだ。『千の風になって』に歌われる死の形は、私たちの祈りであり、憧憬でもある。だから、今年最大のヒットにもなったのだろう。


私自身は、身近な感覚として生命の環を感じてみたいと願ってはいるが、ことさらにそれを求める必要もないと思えるようになった。
「花は消えても、花の形は残る。」
小林秀雄の言葉だったか。ひとの生きた姿は、たとえ死んでも関わったひとの心の中に、そして関わったひとのその後の生き方として息づくことができる。そして、親は、一所懸命に子を育てる……。それだけで十分だ。
たとえ人としての生命がなくなり、そこから新たな別の生命の始まりがあるとしても、「考える木」としての一生は、今この時の1回きりしかない。自分の運命を受け入れながら、そこから逃げ出さずに大切に生きて行きたいと思っている。