こころが自由であること


3月末で16年間勤めた職場を退職した。
辞意を初めて伝えたのは、確か平成17年9月頃だったから、辞めるまでに1年半足らずの期間を要したことになる。その間、雇用主との間で「辞める」、「辞めてもらっては困る」と平行線のやりとりが、意味なく繰り返された。
私には、辞めるに辞められない事情があった。後任がいなかったのだ。
辞めた後、これまで私が診療を担当してきた人たちが宙に浮いた形で残されるだけでなく、組織そのものが維持できなくなってしまう可能性さえあった。
そんな状況の中で、心身ともに限界を感じていた。
「辞めたい……。」
募る思いが、私の気持ちをなおさら頑なにした。そして、結局、患者さんや職場の仲間たちよりも自分を取った。


もともと専門医など志してはいなかったが、赴任してきた当時には、多少なりとも専門分野を極めたいという欲求は持っていた。けれども、医師数の不足、設備の水準、そして何よりも、病院を訪れる地域の人たちの多様なニーズが、それを許してはくれなかった。
「あそこの病院へ行けば、もっといい治療が受けられますよ。」といくら勧めても、無駄に終わることは、数限りなくあった。
「何とかここで診てはくれませんか。」
病院を訪れる人たちは、お年寄りが大部分だ。
この歳になって住み慣れたこの土地を離れたくない。もし、命を落とすことがあったとしても、ここを離れて死にたくない。ここで死んで行きたい。
診療を続けていると、そんな想いが、静かだが確かに伝わってきた。
「高齢者が何とか自立した生活を送ることを可能にする医療」これが、16年間を通しての私のテーマとなり、そして、(内科に限るが)何でも診療できる医者が目標となった。


平成17年になって、ただでさえ少ない医師数がさらに減ることになった。他の医師のカバーをする必要も増えてきた。
そのうえ、私一人さえ居れば実現可能な医療手技であっても、万が一、何か不測の事態が起こった場合、私一人では対処しきれない可能性のあるものは、安全性を考えると、行なうことが出来なくなってしまった。
できるだけ皆の想いをかなえたい。けれども、出来ないことがどんどん増えてしまった結果、役に立てなくなることも多くなってきた。可能なことでも、それを行う時間的な余裕もなくなってきていた。
安全性を考えた医療をできるだけ行っていたつもりだったが、それでも、このままここで診療していて患者さんの安全を守ることが出来るのかと、絶えず判断を迫られる局面も随分と増えた。
年齢的なこともあったと思う。以前なら、瞬時に出来ていた判断に時間がかかるようになってしまった。そして、不安に伴う自信のなさが、決断を鈍らせることもあった。
結果として必然的に生じてしまったことではあったが、どのような医療を行ったとしても、自立する当てのない患者さんが多くのベッドを占めるようになり、さらにそれが気持ちを萎えさせた。


平成14年頃から、何時に寝ても、早朝(5時頃)に眼が覚めるようになってきた。平成17年の夏には、4時頃、12月頃には、殆ど毎日のように2時頃に眼が覚めるようになった。何のことはない、語りつくしても眠れなかったのだ。


真っ暗なプラットホームに立っていた。ひどく寒い。
辺りの灯りはすっかり消え、遠くに見えるはずの人家の灯りも消えていた。
真っ暗闇の中をヘッドライトが近づいてきたかと思うと、黒い電車がプラットホームに滑り込んで来た。
電車に乗り込んだ私は、開いたドアからホームの方をぼんやりと眺めていた。
「こんな時間に電車が……。」と思った瞬間、ドアが閉じた。
「しまった。」
車内の灯りは突然消え、うってかわってガラス窓から見える線路脇の人家には、どの家にも煌々と明かりがともっている。
ガラス窓をバンバン叩き続けたが、ドアは開くはずもない。
私を乗せた黒い電車は、どこまでも、どこまでも走り続け、あてもなく私はガラス窓を叩き続けていた……。


そこで眼が覚めた。確かに眼が覚めたはずなのに、あたり一面、真っ白で、眩しくて、何も見えない。


「ウォーッ」
大声で叫んだ瞬間、眼が覚めた。今度は本当に覚めたらしく、暗闇の中に見慣れた寝室の風景があった。
さっきの真っ白な眩しい光景は何だったのだろう。眼を覚ました感覚は、確かなものだったはずだ。怖かった。ただ、怖かった……。
真っ暗な寝室のベッドの上で独り胡坐をかいて、「何があっても辞めよう」と考えていた。平成17年12月のことだ。


「何でも診よう。」「何とか自立した生活を、少しでも質の高い生活を。」という私の医療は、例えて言うならば、コンビニのような医療だったのだと思う。幸いなことに、地域の人たちの信頼をいくらかでも得られたように感じることはできた。その幾許かの信頼が私のプライドを支えることで、それなりに幸せな16年間が過ごせたことには感謝している。
けれども、その信頼とともに私に寄せられた期待や想いに「応えたい、応えなければ」と思う反面、「いい加減にしてくれ、もう診たくない」と小さな声で叫んでいるもうひとつの心があることに、いつしか気づき始めた。そして、その声が、日増しに大きくなってきたのを感じていた。
きっと、私は、私という小さな器に、盛りきれないほどのたくさんの想いを容れすぎたのだと思う。そして、他人のたくさんの想いが自分を束縛するものとしか感じられなくなってしまった結果、自分のこころの自由さを失いかけていたのだと思う。
寄せられる想いにビビッドに反応したり、想いをかなえられた瞬間の喜びが感じられなくなったりしたとき、他人の想いは束縛や重荷でしかなく、こころはしなやかさと自由を失ってしまう。


12月には、3月末で退職することが内定した。
後任の不在は、私の心を重くしたが、タイムリミットが迫っていた。申し訳ない思いを抱きながら、1月下旬から担当している全ての患者さんの紹介状を書き始め、3月29日に全ての作業を終えることができた。
幸いなことに、1月末から2月にかけて、後任が何人か決定した。そして、紹介状の大部分は、申し送りに書き換えられた。


2月から私は、5時間は眠れるようになった。


新しい職場は、以前から誘っていただいていた病院の中で一番熱意が感じられたところに決めた。病院の経営状況とかは全く考えず、ただ熱意のみで決めた。無茶といえば無茶だが、まあ何とかなるだろうと楽観的に考えている。
新たな職場では、自ら進んで仕事を増やしていないので、仕事量は随分減った。目下、再び情熱が甦る日に備え、ひたすら医学を充電することに専念しているが、早くも仕事がしたくて、したくてしょうがなくなってきている。予想外の事態に若干戸惑いながらも、今のところのんびりとした日々を送っている。