大人は、本気を見せろ


一連の「いじめによる自殺」の報道をみていて、「ちょっと違うんじゃないか」と危惧を覚える。ひとを自殺にまで追い込んでいく「苛める人間がいる」ということが、最大の問題であるにもかかわらず、「学校はなにをしているのだ」という学校の責任問題に問題がすりかえられているように感じるからだ。
これには、昨今相次いで明るみに出た、いじめがあったという事実とか、必修科目の未履修という問題をひた隠しにしようとした学校や教育委員会の体質への強い不信感が大いに関係していることは、想像するに難くない。
いじめを追放するために学校が何をすべきかを論じるのはいい。しかし、今のメディアの論調は、学校教育への憤りに流れすぎてはいないか。そして、それが、いかに厳格にいじめを管理するかという方向へと学校関係者を追い込みすぎてはいないか。
いじめを管理することは、いじめをなくすのに果たして有効な方法なのだろうか。


いまここで、なぜ、ひとがひとを苛めるのか、そういった原点に立ってあらためて考えてみることも必要なのではないだろうか。
私は、もちろんこの問題に対するエキスパートではないが、ブログらしく個人の考えを思いつくまま気軽に書いておこうと思う。


相手をしていて、妙にイラつく人がいる。その人の言葉や一挙手一投足にいちいち腹が立ってくるのを、なぜか押さえきれない……。
じっくり考えてみると、実は、自分自身のなかに忌み嫌っているある欠点が存在していて(そして、何かにつけ自分自身はその欠点を意識的に、あるいは、無意識的に、克服しようと努力していることが多い)、その欠点を相手の中に見出すことで、相手を嫌悪している場合があるのに気づく(ユング心理学でいう『影』のようなものか)。
その苛立ちが、直接相手に対する攻撃として出る、あるいは、自分のその嫌な部分が攻撃される前に、他人の嫌な部分を攻撃して自分を守ろうとするという反応のひとつが、いじめではないかと私は考えている。
私の考えがいじめの真実のひとつであると仮定すると、苛めたひと自身の手によって、どういった理由で相手をいじめたのかが分析されるならば、それは、その後のいじめの防止に繋がっていくはずである。
もちろん、そのためには、苛めた人が「ひとをいじめで傷つけてしまった」という加害者意識をもつことが前提とされなければならない。当たり前のことではあるが、人を傷つけるのは誤ったことであるという確固たる認識を、幼い頃から繰り返し学び、身につけていくことが、苛める側をなくすためには大切なのだろう。


私自身、幼稚園から小学校にかけてよく喧嘩をした。
喧嘩を仕掛けられたとき、「あなたがなにか悪いことをしたから、相手が手を出したんでしょう。」と、母や祖母からよく言われたものだ。相手は故あって手を出し、私は理由なくひとに悪いことをする奴ということらしい。
そんな風に言われたとき、いつもこころにわだかまりを感じていたのを思い出す。そして、思い出すと無性に腹が立ってくる。
「苛められる方にも原因がある。」
よく聞く言葉だ。確かに、そういう場合もあるだろうが、そうじゃない場合もあるだろう。たとえ、それが真実であったにしても、苛められている側の気持ちへの共感なくしては、言葉が届くはずもない。
苛められた側は、なによりも、苛められた気持ちを理解してくれるひとを必要としている。そして、苛められたときの辛い気持ちの記憶は、ひとを傷つけるという逆の過ちを防ぐことにも繋がっていくと思う。


我が子がなにか不都合なことをしでかしたとき、つい声を荒げて怒ってしまうことは、よくあることだ。「怒るのは、子どものためを思って」などというのは綺麗ごとで、それは、ただ、子どもの行為に腹を立てたからに過ぎないことが多い。
怒られるということが、子どもに対して抑止力として働いているのはよく分かるが、その実、抑止力となっているのは恐怖そのもので、善悪の判断ではない場合も多い。さらに、きつく叱られる子どもが、恐怖から逃れるために、事実を隠蔽する習慣を身につけてしまいがちだということも事実だと思う。
家庭でも、学校でも、問題を解決するためには、子どもが自分のことを話したり、相談できたりする環境が必要であるのはいうまでもないが、そのためには、怒ったり、処罰したりという行為に対しては、くれぐれも慎重な姿勢が望まれる。


そして、いじめの管理ということを考えたとき、そもそも、子どもの世界を大人が十分に理解したうえで、事実認定ができるのかという問題もある。
いじめには、当然、苛めた側と苛められた側がある。したがって、いじめという事実を認定するということは、必然的に、苛めた側の人間、苛められた側の人間を明らかにすること(公にすることとは違う)が含まれることになる。
悪質な苛めの場合は単純であるが、特に小学生以下の児童が対象となった場合などは、そう単純にはいかないことも多くなるのではないだろうか。
たとえば、数人から成る仲良しのグループがあったとする。何をして遊ぼうかということから意見が対立し、多数派と少数派に分かれた場合、意見が対立した少数派がハネにされ、多数派が仲良く遊ぶのを横目でみながら悔しい思いをする場合もあるだろう。逆に、少数派が感情的になり、戸惑う多数派を残して、さっさとグループを飛び出して勝手に遊びだすという場合もあるだろう。
そんな些細な感情の対立がきっかけになって、少数派の子がその後無視されるようになったり、あるいは、無視されているわけではないのに疎外感を感じたりするということが、いじめとして捉えられることも実際には起こっているだろうと思う。この場合、事実関係は、本来それほど悪質なものではない。
十分に吟味されないまま、大人の手によって、いじめという事実が認定されることはあってはならない。ましてや、十分に吟味されていないいじめが事実として公になるのは、なんとしても避けなければならない。
いじめがあったという事実が公になると、当然、苛めた側への周囲からのバッシングが生じてくる。所謂、社会からの制裁というやつだ。苛められた側の被害が大きければ大きいほど、バッシングは甚大なものになるだろう。
苛められた被害者の気持ちは理解されるべきものであるが、誤解を恐れずにいうならば、その被害者の気持ちが生んだ結果の重大さと加えられた害の大きさを同列に考えるべきではない(逆の面から考えれば、加害者にとって、あるいは、第三者にとっては些細なことでも、他者をひどく傷つけ、重大な事態を招く可能性が有り得るということは、十分に意識されるべきことだと思う)。
いじめが悪質である場合は別にして、些細な行き違いで自殺などの事態を引き起こした場合、学校関係者は、周囲のバッシングから苛めた側にされた子ども達を守れるのか。
そういった意味では、学校、あるいは第三者機関の調査をもう少し信用して待つのが、本来、望ましいことであり、メディアが先行することは自粛すべきであろうと考える。しかし、今回の福岡の事件のように、遺族と学校との会談が撮影されメディアに流れるといった事態には、今の時代における学校不信の根深さを感じ、やりきれない思いにとらわれてしまう。


いじめは、子どもが社会の一員として社会と関わる過程に起こってくる問題であり、人生の過程の途上で直面する問題である。いじめにあった被害者にとっては無理もない話としても、いじめが学校で起こっているから、学校のいじめへの対応が悪いからといって、学校だけを責め立てるのは、子どもを育てる大人として恥ずべき行為だと思う。
学校も家庭も同罪で、反省すべきは、子どもを育てる大人全員である。


幸いなことに、と言っていいのかどうか分からないが、(いじめが原因ではないが)長男の不登校を経験したせいで、うちの家族は学校に多くの期待をしていない。
それは、学校不信ということとは少し違う。学校によってできることとできないことは厳然としてあり、そして、求めても成果が期待できそうもないことも、状況をみればなんとなく分かるようになったからである。
学校は、どうしても行かなければならないところではない。学校に行かせないという選択肢もあるのだ。
わが子が元気をなくしているとき、親はすぐに気がつかなければならない。危ないと思ったら、学校に行かせてはいけない。我が子の危機に、親は、全力で立ち向かわなくてはならない。


先生は、生徒の作品や文章に一所懸命コメントを書いたり、生徒の発言に真摯に耳を貸し、心を込めて反応したりしなければならない。自分が間違えた時は、たとえ相手が子どもでも真剣に謝らなければならない。一個の人間としての懸命さは、必ずや生徒に伝わり、そこに信頼関係が生まれることだろう。
先生は、生徒全員に平等に関わらねばならないと思うあまり、大きな問題を抱えた生徒に深く関わることを恐れてはならない。大きな問題を抱えたひとりの生徒にも本気でつきあえない先生が、生徒ひとりひとりに本気になれるはずもないということは、すぐに子どもに見抜かれてしまうに違いない。子どもを甘く見てはいけない。そして、本気で生徒につきあう先生の姿は、生徒達のこころにきっと届くはずだと私は信じる。


大人は本気をみせなければならない。