『地下鉄に乗って』(浅田次郎 著)〜せつなくてかけがえのない愛のかたち〜


先日、伯父の通夜があった。
読経の流れる通夜の席で、祖父の葬儀の日のことを何となく思い出した。
寝たきりになっていた祖母をその2年前に亡くした後、祖父は軽い認知症になっていたようだ。下の世話やら食事のわがままやらに両親は振り回され、日毎に疲れの色が増しているようにみえた矢先の死だった。
葬儀の日、実家の玄関で、わたしと父は並んで靴を履いていた。
家の奥からは、近所のオバサン連中が、賑やかに寿司を作っている声が聞こえてきた。田舎のことなので、葬式が出ると近隣の家から大勢の人がつめかけて、式の手伝いをしたり、料理を作ったりする習慣が、当時は残っていた。他所の家の中でわがもの顔に大声をあげながら働き、酢で固めたようなまずい寿司を作るこの善意の隣人達が、私は嫌いだった。
私の隣で、父も苦虫を噛み潰したような顔をして靴を履いていた。
「ちょっと、ほっとしたね。」
それまでの父の苦労を思いやって言ったつもりだった。父は目をあわさず、無言のまま困ったような顔をしながらうつむき、まだ靴を履いていた。
一瞬、後悔が走った。が、何事もなかったように父は立ち上がり、葬儀の執り行われる寺へ向かって2人並んで家を出た。


祖父の葬儀で思い浮かんでくるのは、きまってこの光景だ。
その頃の父は、今の私とほぼ同い歳で、当時の私は、うちの長男とほぼ同い年。大学を出てすぐに祖父母の扶養をはじめた父は、さらに母、姉、兄、私の4人を扶養していた。2〜3年のうちにつぎつぎと祖父母を見送った父は、今の私より随分と大人に見えた。その頃、父はなにを思い、なにを考えていたのだろう。父としての顔しか私は知らない。
通夜からの帰り途、姉を送る車の中で祖父の葬儀の話をはじめたが、「あんた、なにが言いたいの?」と笑われた。話の方向を失った私は、「いや、とうさんが僕と同じくらいの歳で、その頃の僕がうちの長男くらいの歳だったっていうこと……。」と応えて、あとはゴニョゴニョと話をごまかした。


メトロ……どことなく懐かしく、せつなく響く言葉だ。浅田次郎の『地下鉄(メトロ)に乗って』は、過去の厳しい現実を描きながらも、せつなさと温もりが伝わってくるファンタジーである。
主人公の真次とみち子は、真次の兄の命日を機に、地下鉄や夢から、戦前、戦時中、戦後、東京オリンピックの頃へとタイムスリップを繰り返すようになる。辿りついた時代での体験は、親と子という関係を通じては、けっして垣間見ることすらできなかった父や母の姿を次々と教えてくれる。やがて、親から子へと流れていく時の流れの中で、彼らはひとつの真実にたどりつく……。
読み進むにつれ、浅田の織成すビビッドな表現とダイナミックな展開にぐいぐいと引き込まれていく。骨太で力強いうねりを持った物語だ。
ひとの人生とは、つまるところ、ひとのこころの中に降り積もっていく時間の記憶の中にある。ひとの記憶の中では、時間は一様に流れるものではなく、あるときはうっすらと、あるときは濃密に流れていく。そして、その時間は、あくまでも社会や家庭のなかでの個の役割を通じてしか手に入らない、限られたものにすぎない。
しかし、真次とみち子は、通常の時間軸を生きる真次とみち子という人間としてはけっして手にすることのできない時間を、タイムスリップという手段によって共有するようになる。
親子でしか分からないことがある。けれども、一緒に暮らすだけでは、絶対にはかり知ることができなくて、語られることによって初めて気づくこともある。そして、親子ではけっして覗き見ることのできない、他人としてつきあうことで初めて見えてくるひととしての姿もある。
タイムスリップを通じて、自分たちを取り巻く境遇がどんどん見えてくる。親としての姿しか知らなかった父や母のひととしての姿が見えてくる。そして、父や母が、時の大きなうねりの中で、ひととき、ひとときを懸命にひたむきに生きる姿が見えてくる。
自分の中に親の血が脈々と息づいているという実感、そして、たくさんの大きな愛に自分が支えられているという実感で、真次の見る現実は、タイムスリップを経験した後、大きく変化する。物語のラストでは、それは、真次のこころの中のもやもやとしたものを晴らし、いきいきと現実を生きる大いなる力となっている。
この物語をどう受け取るかは、ひとそれぞれだと思う。わたしには、父と子の物語である以上に男と女の愛の物語としての印象が強く残った。真次とみち子の2人のこころがシンクロしてたどりつく、せつなくてかけがえのない愛のかたちは哀しくて儚いようで、繊細な輝きをもって温かい。ラストまで一気に読んだ時の、なんとも表現しがたい読後感は、このかけがえのない愛のかたちへの想いなのだろうと思う。


映画『地下鉄(メトロ)に乗って』は、10月公開されるという。
ビジュアル的にも巧緻な演出のほどこされたこの小説が映画化されるとき、どんな演出がなされているのだろう。小説の演出を丹念になぞった読者の予想に違わぬものだろうか、それとも小説に挑戦するかのような、感性の煌きで全く新しい画を描いたものだろうか。興味は尽きない。
いずれにしても、みち子のせつなくてかけがえのない愛のかたちが、慈しむように表現されていることを願っている。
公開が楽しみだ。