映画 『 UDON 』を観て


私はさぬきうどんの本場、香川県の片田舎で生まれた。
香川県出身者の多分にもれぬ大のうどん好きで、たとえ毎日でも、喜んでうどんが食える人間であると自負している。
「これからはうどんだよ。お兄さん、うどん屋を始めなさい。」
お気に入りのラーメン屋のご主人に、熱心にうどん屋の開業を勧められたこともあったくらいだ(関係ないか)。


踊る大捜査線』シリーズでおなじみの、本広克之監督が撮った『UDON』を観に行って来た。
さぬきうどんの魅力に目覚め、うどん屋を志したユースケ・サンタマリア演じる主人公が、父のうどんの味を苦労しながら再現していく過程を通じて、父の真実の姿に出逢っていく。そして、彼の新たな旅立ちがそこから始まる……。そんなストーリーの映画だ。
登場人物のキャラクターが十分に立っていないため、不必要な登場人物ができてしまったり、(スポンサーや出演者との絡み、義理はあるだろうが)無駄なシーンを思い切りよくカットできなかったことで、ストーリーの流れが散漫になってしまったり……、といった欠点も眼につき、完成度は高くない。しかし、『踊る−』シリーズでみせた、主軸となる展開でのテンポよくたたみかける演出は健在で、それなりに楽しいエンターテインメント作品には仕上がっていると感じた。


さぬきうどんのブームは、ご当地讃岐(香川県)から火が点いた。火付け役となったのは麺通団というグループだ(ちなみに『UDON』にも麺通団はそっくりそのままの名前で登場するし、団長や団員の方もさりげなく出演している)。
彼らに発掘されたさぬきうどんの魅力とは「旨い」ではなく「面白い」。讃岐でのさぬきうどんブームは、他のグルメブームとは一線を画したブームであった。
「この店の麺はどうだ」とか「あの店のだしの味はどうだ」とかが話題にならなかった訳ではないが、「この店はこんなに分かりにくい場所にある」とか「あの店ではこんな風に注文しないといけない」とか「こんなものを用意していかなければならない」とか「ねぎを自分で畑からとって自分できざむ店の話」とか……。麺通団の描くさぬきうどんの世界は、グルメ紀行ではなく、探検記だ。
うどんを作っている製麺所があるとする。製麺所は、麺をうって、うどん屋、病院、学校などに麺を卸すのが本来の仕事であるが、製麺所周辺を生活圏とする人々は、自然と製麺所にうどんを分けてもらおうと集まってくるようになる。そうしているうちに、その場でうどんを食べたいという人たちも、なかには現れてくる。そこで、製麺所は簡単にうどんが食べられるようにテーブルやしょうゆなどを用意するようになる。製麺所タイプのセルフ店の発生だ。
讃岐以外の人はもとより、讃岐の人ですら、自分の生活圏を離れた場所にあるうどん屋では、異邦人である。極端に言えば、100の生活圏には100通りのうどんの食べ方がある。異邦人たちは、おとなしくその地のしきたりに従ってうどんを食わねばならない(基本さえはずさなければ、オリジナリティーはもちろん認められる)。それが、その土地に暮らす人たちの暮らしを尊重するという一種の礼儀のようなものになっていると思う。
さぬきうどんは、まさに映画で語られるように、そこの地に暮らす人たちの「ソウルフード」なのだ。その意味では、讃岐の地を離れたさぬきうどんは、さぬきうどんという名を持った一品の料理でこそあれ、そこに本来のさぬきうどん文化が感じられることはない。
うどんに集う讃岐の人々の生活の息吹が感じられるからこそ、麺通団のさぬきうどんの世界は支持されているのだと思う。


冒頭にも述べたように、『UDON』は、エンターテインメントとしてはそこそこ楽しめる作品であるものの、その完成度はけっして高くない。私の要求する水準には、達していない映画だと思う。なのに、私は『UDON』を失敗作ということが出来ない。
それは、夕暮れの堤を親子が並んで歩く後姿に象徴された、包み込むような温かさが映画から感じられるせいだろう。
UDON』では、麺通団の発掘したさぬきうどんの世界が丹念になぞられている。本広監督のさぬきうどんの世界への深い敬意が、映画からは随所に感じられる。それは、主人公の実家周辺の風景に代表される讃岐の風土とそこで暮らすひとびとへの深い愛情であり、郷土への愛情でもある。『UDON』は、自分を育んでくれた故郷への本広克之監督のオマージュなのだと思った。