高校野球に面白さを求めるのは罪なことなのだ


学生時代にはよく観ていた高校野球だが、今では殆んど関心がなくなってしまった。
平日の昼間は仕事と重なり、物理的に観ることができなくなったというのは勿論だが、プロ野球に比べて技術が洗練されていないことが満足できなかったり、金属バットの効果で、完全に詰まらされた当りがヒットになってしまうことや、「疲労困憊した状態」という状況設定が思わぬ展開を生んだ結果、内容で劣ったチームがしばしば試合を制したりすることが納得できなくなったというのも、関心が失せた大きな理由だ。
しかしながら、試合をエンターテインメントとして捉えた場合、後者の要素はむしろ、試合を面白くする要素であることは否定できない。ちょうど、それは、身体的、精神的に厳しい条件が予想外の悪コンディションを生じさせる箱根駅伝とか、アクシデントがつきもののスノーボードクロスとかの面白さにも共通する、スポーツ以外の要素による面白さだ。


8月20日の日曜日、本当に久しぶりに、じっくりと高校野球を観た。
実に見応えのある内容の試合だった。早実の斎藤投手の縦スライダーは、切れ、コントロールともに申し分なく、駒大苫小牧の田中投手のスライダーは、時々抜けて甘くなってはいたものの、決まったときの独特の変化は、即プロで通用するくらいの凄みを感じさせた。高校野球の頂点を決するにふさわしい内容を持った投手戦だったと思う。


しかし、翌日の再試合をはじめ、甲子園大会の過密日程は常軌を逸したものといわざるを得ない。いつまでこのようなばかげた運営が野放しにされているのか。
高野連朝日新聞社は、「最初に甲子園大会ありき」という考えに支配されていすぎてはいないだろうか。つまり、甲子園大会が、高校スポーツ本来の姿から逸脱した大会であるにもかかわらず、甲子園大会の魅力を守ろうとしていることに問題の根があるように思われてならない。
すでに、念仏の鉄さんが『早実の斎藤はなぜ4連投しなければならなかったのか』、『続・早実の斎藤はなぜ4連投しなければならなかったのか』、『清水諭『甲子園野球のアルケオロジー』』の3つのエントリで綿密に詳細に論じておられるので、敢えて私の稚拙な論を張ろうとは思わないが、鉄さんのご意見をなぞることを覚悟の上で言わせていただけば、いまだに大会日程の見直しが堂々と論じられることが少ないのは、現在の甲子園大会が、「見せ物」(上品にいえば「スポーツエンターテインメント」)として多くの人を惹きつけてやまない面白さを持っており、大会の運営方法を変更することが、その面白さを半減してしまうことに繋がってしまう怖れを甲子園に魅せられた人たちが感じているからだろう。


甲子園大会の魅力のひとつに、全試合がリアルタイムで全国にライブ放送されるということが挙げられる。それは、甲子園大会を目指すものの立場からみれば、全国に開かれた甲子園という巨大なステージに上がることができるということでもある。その日、その時刻に高校野球をしているのは自分達だけ、そして、自分たちの一挙手一投足にリアルタイムで全国の人が注目している……出場を目指すものにとっては、何ものにも代え難い大きな魅力として映るだろう。そして、大会を観るものにとっても、スポーツのライブ中継は、中継録画に比べ遥かに魅力的なコンテンツに違いない。
開催期間を変更せずに、試合日程を楽にしようと思えば簡単なことだ。複数会場での開催にすればいい。
しかし、この形式にすれば、全試合の全国への生放送という形式は不可能になる。注目のカード以外は当然録画という形に落ち着くことになる。
さらには、全国での複数会場という形式にした場合、移動予算などを考慮すれば、対戦カードは地方大会の延長のような形になってしまう可能性もある。試合がローカルな放映のみとなってしまう憂き目に会う場合も起こり得る。


長年の間、数々の熱戦が繰り広げられてきた甲子園という歴史ある舞台と他球場では、やはり伝統の重みが違う。それは、戦うもの、応援するもの、ただ観るだけのものにとっても、その価値観に微妙な影響を与えるだろう。ちょうど、全英オープンセントアンドリュースで開かれるのと他所で開かれるのとを比べた場合のようなものかも知れない。


大会日程が緩和されることによって、「疲労困憊した状況」で生まれてくる数々のドラマティックな場面も期待しがたくなる。その結果、高校野球は、より純粋のスポーツ大会に近づくことになっていくのではないか。
古い話で恐縮だが、かつて、腕が折れてもマウンドに上がった別所投手は、「泣くな、別所。甲子園の花」と称えられた。逆境に耐えて頑張る姿は、間違いなく人を感動させる。それが困難な状況であればあるほど、それが克服されるときの感動は大きい。甲子園大会には、多くのひとの「感動させてくれ」という願いが収斂されている。その願いが、甲子園大会に潜在的に困難な状況を求めてはいないか。
そして、その感動が大きければ大きいほど、メディアは感動を伝えるのに腐心し、その影で、理不尽な大会運営の不備は、無視され、野放しにされている。


高校野球が面白くなくなり、その特別な地位を失ったとき、果たしてどれだけの若者が野球を志すだろう。そして、日本における野球というスポーツの将来は、どうなっていくのだろう。
しかし、学生スポーツの一環であるべき高校野球が、これほどまでに人々の注目を集めている今の状況は、やはり尋常な状況ではない。アマチュアスポーツであり、学生スポーツである高校野球に面白さを求めるのは、おかしなことであり、罪なことですらある。
高校野球ファンは、「面白くない高校野球」を選ぶ勇気を持って欲しい。