愛国心とは?教育基本法改正案の危うさ


人はみな異なる価値観を持ってこの世の中に生きている。浄土真宗を信仰し、ブログで1日10,000アクセスを獲得することを目指すAさん。カソリックを信仰し、どうやったら株で大儲けが出来るかを考えるBさん。創価学会を信仰し、地域のボランティア活動に意欲を燃やすCさん……。お互いの異なる価値観を衝突させることなく、共存することが出来る場所が即ち国であり、国における共存のルールが法だろう。
私は法律に関しては門外漢の人間だが、法というものは公の部分を規制するものだと思っている。毎朝、道路の掃除を熱心に行っているDさんが、普段どんなエロなことを考えていようと、それはDさんの勝手であり、Dさんが法に触れる行為を行わない限り、社会で不当に扱われることがあってはならない。
法というものが個人の思想、信条、その他のさまざまな価値観に踏み込むならば、その結果、特定の価値観を持つ人間が差別される社会が形成されることになるだろう。そして、この国に住む多くの人は、そのような社会や国家が造られることを望んではいないだろう。


2003年の中央教育審議会中教審)の答申を受けて、検討を続けていた教育基本法の改正案が自公の間で12日まとまったようだ。( 4月13日 東京新聞 「 教育基本法改正 自公、愛国心の表記合意 」
愛国心を持つかどうかということは、個人の心の中の問題で、教育基本法で規定する問題ではないだろう。
自民党の主張する「 国を愛する心 」や公明党の主張する「 国を大切にする心 」の文言が採択されず、座長案の「 伝統と文化を尊重し、それらをはぐくんできた我が国と郷土を愛するとともに、他国を尊重し国際社会の平和と発展に寄与する態度を養う 」という文言が採択されたことには、ちょっとホッとしたが、それにしても、やはり個人の心の中に踏み込んだ部分があることには変わりがない。
「 わが国の伝統と文化を教育すること 」と「 それを尊重すること 」「 我が国と郷土を愛すること 」は明確に区分されるべきだ。「 他国の事情を教育すること 」と「 他国を尊重すること 」ということも同様である。つまり、我が国や他国を尊重しようとすまいと、それは個人の心の中の問題だ。
我が国の伝統や文化が素晴らしいものであるならば、その内容が教育を通じて伝えられることによって、それを尊重し大切に育む心は自然と芽生えてくるものだ。他国の社会情勢や歴史に関しても同じだ。そして、そういった道筋で愛国心が自然と発生してくるものならば、わざわざ文言として法に盛り込む必要もない。
そして、その愛国心を測る尺度として「 君が代 」や「 国旗掲揚 」が教育現場に押し付けられることも望ましくはない。すなわち、「 君が代斉唱は愛国心を象徴する態度であり、それに否定的な姿勢をとるのは愛国心が薄い人間だ 」といった短絡的な思考が教育現場を支配することは望ましいことではない。
私は日本での式典に国歌が演奏されたり、国旗掲揚が行われたりすることを否定しているのではない。 むしろ、当然のことと考えている。だから、君が代国旗掲揚に過去の歴史的事実を重ね合わせて嫌悪したり、これまた短絡的に、国家体制への服従と同一視してしまってそれを受け入れることが出来ないのも、望ましいこととは考えていない。
つまり、公の場で式次第として行われることに対して、それを肯定するであれ、否定するであれ、個人的な考えをそこに持ち込んで私的な態度で式に臨む、あるいは国歌や国旗にある種の意図を込めて画一的な思想を押し付けるなどといったことは、いずれも危うさを孕んでおり、教育の場で行われるべきことではないと考えている。
それぞれの個の心の中の問題を、そのまま国家というひとつの社会のなかに持ち込んだなら、国家はもはや成り立たつことは出来ない。しかし、国家が個の心のなかに踏み込んで、それを法で統制することも適当ではない。
大切なのは社会のルールというものがどのようにして発生してきて、どのような役割を果たしているかを教育することだと思う。そうした過程から、自ずと個人の人権の大切さ、そして、さまざまな価値観を持った個人が節度を持って共存する国家というものの必要性を学んでいくことが本当は大切なのではないだろうか。