「博士の愛した数式 (新潮文庫)」原作を読んで


映画「博士の愛した数式」を観た後、原作の小説も読んでみた。比較しての感想を前のエントリーのコメント欄に書いてはみたものの、随分と長くなったこともあり、コピペして新たにエントリーとしてあげることにした。コメント目的で書いたため、「です、ます調」になっているが、いつもとは違った味わいでこれもまた面白いのではと思い(本当は直すのが面倒なだけ)、そのままあげてみた。


遅ればせながら、原作を読みました。
原作では、より多くの部分が数学や数字に関して割かれていたものの、原作の世界が映画で誠実に表現されていることにちょっと驚きました。
この作品から感じられる静謐は、宇宙の秩序を表現する神秘的な存在であり、寡黙にひっそりと発見されるのを待っている数字や数式という存在そのものが持つ静けさなのでしょうね。この静かな、美しい秩序ある世界を語る博士の言葉やその人となりの設定が秀逸であることが、映画にも小説にも共通した、作品に特有の静けさを醸し出す大きな要素になっているのだと思いました。
原作では語り手となっている家政婦「私」の思考内容や心理描写は、映画という手法を用いた場合、場面の演出や俳優の演技で表現せざるを得ません。映画の表現に違和感を覚えないということは、必然的に演出や「私」を演じた深津絵里の演技が優れていたということなのでしょう。同情でもなく、恋愛でも、尊敬でもない素朴な愛の形を、巧みに自然な形で表現した深津絵里の非凡さにあらためて気づかされました。
ただ、作品のイメージが記憶の中にある映画のシーンに引っ張られてしまうことで、想像の広がりが限られたものになりがちであるため、やはり原作を先に読むべきでしょうね。
それから、義姉の存在は、原作での扱いのように控えめな方が作品の邪魔にならないのではと思いました。振り返ってみると、映画でもさほどその存在が強調されていた訳でもないのに、そのように感じてしまうということは、浅丘ルリ子の存在感がありすぎたためではなかったかと思います。そういった意味では、ミスキャストです。彼女を使うならば、義姉のストーリーを膨らますべきです。
そして、創造主の織り成す秩序がより深く、より美しく感じられたのは、やはり小説の方でした。如何に誠実に、巧みに表現したとしても、作品の個性である秩序ある世界の美しさを表現するのには、言葉のほうが適していたということなのではないでしょうか。