誰が死を選ぶのか


富山県射水市民病院での人工呼吸器取り外し事件をきっかけに「 尊厳死 」「 安楽死 」あるいは、「 臨終の場での延命 」という問題が取り沙汰されている。
大いに議論されるべき問題だと思う。


人の死というものは、遥か彼方にあるものではない。音も立てずに背後から波のように押し寄せて来るものだ。こうしてエントリーを書いている最中にも、私の身に振ってかかってくるものかも知れない。
「人が如何に生き、如何に死ぬか」というのは個に託された大きな命題だ。
それを決めるのは、あくまでも自分自身であり、周りの人間ではない。(2005年10月24日エントリー「 いかに生きるか、いかに死ぬか 」


しかし、「 如何に死ぬか 」ということを生前細かいことまで決めて、家族に告げている人は驚くほど少ない。
だから、突然死が牙をむいて襲ってきたなら、被害者は自らの意思を告げることもできず、周りのものは、死というものが受け入れられずにおろおろと立ちつくす。
病状が進行し、いつ亡くなってもおかしくないという状況においてさえも、意識状態が良かったり、血圧、尿量、呼吸状態などのバイタルサイン(その時点での生命力の指標)が安定していたりすると、周りのものは「 まだ大丈夫 」と思い込んでしまいがちだ。そのため、必然の死すら唐突な死として眼に映り、臨終の場で死を受け入れられない家族が現れることも珍しくない。
「 回復不可能な状態では無意味な延命を行わない 」と合意が出来ている場合でさえ、小康状態が続いている際に呼吸停止が起こったりすると、「 誰々が来るまで(1日後だったりする)人工呼吸器をつけてください。到着したらはずしてもかまいません。 」と懇願する家族にもときどき遭遇する。
死期が迫った患者の家族には、死を受け入れる心の準備が必要だ。そして、死に行くものが生死の選択ができない状態のとき、誰よりも本人のことを知る家族が、その気持ちを推し量って最善の選択をしてあげて欲しい。
生き残るものの都合で、生死を選ぶことがけっしてあってはならない。


意識もなければ、回復するあてもない状態で延命処置が行われている現場に立つと、やりきれない思いに包まれてしまうことも多い。
「 生きてさえいればいい 」そう願いながら、毎日のように会いに来られる家族さえあれば、たとえ治療とはいえない延命処置を続けていても大いに救われる感じがするが、必ずしもそういったケースばかりではない。
こんなはずではなかった、誰もこんな状況を望んでいたわけではなかったという思いを背中に感じるとき、さらにやりきれなさは募るばかりである。
医療従事者にとって、最も大切なことは「 回復不可能な状態 」の判定を慎重に行うことだ。死を選ぶ権利は医療側にはないが、死を選ばせる権威は医療側の手の中にある。ましてや、医療側はこのやりきれなさに負けて死を選ばせることをけっして行ってはならない。


家族であれ、医療従事者であれ、生き残ったもののやりきれなさで中断されるような延命ならば、最初からやらない方がいいに決まっている。死に行くものへの責任として、生死を選択するものたちは、その選択された結果に対して責任を持ち続ける覚悟が必要だ。


痛みや息苦しさの中で、治療の中断と安楽死をうわ言のように訴え続けていた患者が、家族の到着と呼びかけを受けた途端、歯を食いしばって無言で耐え始めることがある。
深く真っ暗な死の淵を覗き込むとき、ひとは何を感じるのであろう。そこに立つ辛さに耐え切れず、今まさに深淵の中に飛び込もうとしたとき、ひとを呼び戻すことが出来るのは、残される家族への思いだけなのではないだろうか。
「 如何に死ぬか 」と言う命題に応える権利を持っているのは、あくまでも死に行くもの自身しかいない。
しかし、死に行くものの思いもまた、状況とともに変わっていくことに鈍感であってはならない。


死に関わるものたちが、罪を犯すことのないようにすること、あるいは、間違ったことをしていないのに罪に問われることがないように法的な規制をかけることには異論はない。
しかし、一方で、死というものはきわめて私的なものだとも思う。
法的規制がかかることで、倫理的に間違っていない、さまざまな「 死のかたち 」が否定されることのないようにも強く望んでいる。