映画『博士の愛した数式』に流れる静かな時間


ご近所との井戸端会議で、情報を仕入れてきた妻が言った。
「『博士の愛した数式 (新潮文庫)』の映画、とってもいいみたいよ。もうすぐ、(興行が)終わるらしいから、いかない?」
博士の愛した数式』は、04年の読売文学賞本屋大賞受賞作である同名小説を原作とした映画である。小説を読んだ息子も、「(小説は)良かったよ」と言っていたそうだ。思い立ったが吉日、先週土曜日に、妻と娘を連れて映画を観に行ってきた。


博士の愛した数式』は、交通事故の後遺症で記憶を80分しか保持できない数学者とその義姉、そして、ある期間、博士と時間をともに過ごした家政婦母子の織り成す物語である。
「80分しか記憶が持たないとかいうことはあるの?」
映画を観た後で、根気が8分しか持たない妻に尋ねられた。
「即時〜短期の新しい記憶をとりあえず置いておくスペースと過去の長期にわたる記憶を保管しておくスペースは別だから、もし、それを繋ぐ経路だけが事故で傷害されれば、過去のことは憶えていて、新しいことが記憶として残っていかないってことは、理論的には有り得ると思うよ。」
と知った風なことを適当に答えておいた。
娘は、記憶の消え方に疑問を持ったようだった。漸次、古い記憶からアナログで消えていくのか、ハードディスクが更新されるように一定時間ごとに一気に消されるのかと。
なかなか鋭い質問をする。さっぱり見当もつかないので、不覚にも答えられなかった。また、調べておかなくては……。


80分しか記憶を保持できない人に体験される時間とはどのようなものか、想像もつかない。しかし、その80分は、その人にとっては、儚いが限りなくかけがえのない時間であるに違いない。そして、博士と過ごした日々の記憶は、博士の記憶が無常に消えた後も、周りの人々の忘れえぬ記憶として残っていく……。
この話の主題は、永遠に流れ続ける時間と無常な人の営み、人生との係わりなのだろう。個の中を流れていく時間が、その個に係わる人たちに共有され、そして、係わったそれぞれの個の中で新たに生き続けることで、その後のそれぞれの人生に影響を与えていく。こうして、人それぞれの時間が営まれ、係わっていくことで、永遠の時間が繋がっていく……。映画の中にも出てきたが、それは、あたかも線分と直線のような関係にあるのだろう。
その意味では、成人して数学教師になった少年「ルート」によって博士の思い出が語られるという演出はとてもいい。原作では母親である家政婦が語るという設定らしい(読んでないので詳細不明。申し訳ない。)が、個と個の時間の係わりと繋がりということを意識させるには、数学で繋がる映画の方がより効果的だと思った。
映画には、博士を通り過ぎては消えていく、泡沫のような、ひととき、ひとときの時間をいつくしむように、美しい風景をとりいれながら、静かな時間が流れていた。それは、悠久の時を越えて存在する真実の象徴としての数式を愛した、博士の中を通り過ぎていく時間を意識させるのに必要十分な、抑制の効いたきめ細やかな演出だったと思う。
しかしながら、ストーリーの展開には大いに不満も残った。この静かな時間の流れを作品の主旋律とするならば、それにからむ作品のアレンジメントとしての、恋愛、不倫、罪の意識、嫉妬、和解などのドラマそれぞれの掘り下げには、いずれも物足りなさを感じてしまった。せっかく存在感のある浅丘ルリ子を起用しながら、彼女の絡むストーリーにふくらみがなく、ひどくもったいない気がした。ネタばれになるので、詳細なストーリーには触れないが、原作ではどうなのだろう。機会があれば、また、読んでみたい。
キャストには、寺尾聡、深津絵里吉岡秀隆浅丘ルリ子、そして子役にはTVドラマ『光とともに』で自閉症の児童を演じた齋藤隆成と芸達者を揃えている。演技は、皆それぞれに見応えがあったが、とりわけ、自然な演技で博士の無垢な心を表現していた寺尾聡の好演が光っていたように感じた。


博士の愛した数式』は、良い映画だとは思う。しかし、映画が好きな人にも、小説が好きな人にも、何か物足りなさが残る映画ではないかと思いつつ家路についた。