『野ブタ。をプロデュース』〜 脚本家 木皿泉の温かいまなざし 〜


昨年11月から今年にかけて、修二と彰が歌う『青春アミーゴ (通常盤)』は爆発的に売れたようだ。70年代歌謡を想わす哀愁を帯びたメロディーと、適度な臭さやせつなさを感じさせる歌詞は、私のようなおやじにも馴染みやすく、それでいてドライブ感のあるリズムを取り入れたアレンジの新鮮さも相俟って、幅広い年代に受け入れられ易かったのだろうと推察する。もちろん、亀梨和也山下智久という、ジャニーズの人気者2人のコラボが話題を呼んだのは言うまでもない。


修二と彰はTVドラマ『野ブタ。をプロデュース』から生まれたユニット*1で、ドラマの主人公の役名、桐谷修二と草野彰に由来している。
ジャニーズドラマと侮ることなかれ、このドラマ、昨年私が観たドラマ*2の中では出色の出来で、これまで観たTVドラマの中でも、このように、あたかも主人公の心のひだに寄り添うように、丁寧にこころの変化を描いていくドラマはあまり記憶にない。
野ブタ。をプロデュース(以下、『野ブタ―』)』は、白岩玄 原作の、芥川賞候補にもなった同名小説を原作にしている。脚本は木皿泉。代表作に『やっぱり猫がすき』、『すいか』がある、男女2人組みの作家らしい。
野ブタ。」は「モーニング娘。」になぞらえた表記で、主人公である桐谷修二が、ハロープロジェクトのプロデューサーである、つんくを気取っていることからきている。
ドラマを数回観た後に、原作を初めて読んだのだが、設定の大胆な変更には少々驚かされた。小説では男子である主人公「野ブタ。」が、TVドラマでは女子だ。草野彰は、ドラマのオリジナルである……。ドラマと小説は、全く別物と考えたほうがいいかも知れない。
小説に描かれた世界は、活字で読んでもビジュアルをイメージし易く、脚色化し易い作品だという印象を受けた。が、おそらく、そのままの形で脚本にしても、2時間ドラマか映画1本の長さにしかならないだろう。これを1時間枠10回以上の放送で、しかも、きちんとした形でのメッセージを伝えようとすれば、大幅に設定や内容を変更せざるを得なかったこともよく理解できる。
しかし、ドラマ、小説の両作品に共通した主題はある。それは、「場(フィールド)のアイデンティティーと個人との関わり」だ。さまざまな意見はあると思うが、作品を貫くテーマが共通のものであるという、このただ一点が、辛うじてこの小説をドラマの原作として踏みとどまらせているように思う。
2月7日のエントリーにも関連するが、私たちは社会の中でさらにいくつかの集団に属する。それはつまり、職場であったり、学校であったり、クラスであったり、サークルやクラブであったりといった、共通の目的を持ったひとつの閉じたフィールドである。このフィールドの中では、自然発生的にある種の暗黙のルールや、そのフィールド全体を支配する空気が発生してくる。私の言う「場のアイデンティティー」とは、集団の存在する目的のみならず、集団を支配するこの暗黙のルールや空気、すなわち、それに従っていると心地良くその集団の中で生きていけるものを、全て含めて指している。
それに従わない人間は、場の中で居心地の悪さや疎外感を次第に感じるようになる。すなわち、「場の空気を読めよ」、「あいつは、つきあいが悪い」に始まり、「キモい」、「ウザい」とかいった蔑まれた表現で集団から区別されるといったことも、起こってくる。結果、人はその場に上手に適合しようとして、集団ごとにその集団に適した顔を持つようになる。学校の友だちの中、学校を離れた仲間の中、家族の中……、それぞれの顔がかけ離れたものになってしまうといった事態も、個というものがまだ十分に確立していない思春期にはとりわけ起こりやすい。
野ブタ―』はそんな「場のアイデンティティー」を逆手にとって、さえない転校生を、学校というフィールドの中で、場に適合することを目指すのみならず、場の中で支持される人気者「野ブタ。」に仕立て上げていこう(プロデュースしよう)とする高校生の物語である。
最も大きくドラマと小説の違いを際立たせているものは、主人公たちの自己、個性の描かれ方だ。小説の主人公たちが、個があるように見せかけて実は空虚な存在であるのに比べ、ドラマの主人公たちは、集団に溶け込もうとしながらも、個と集団との乖離に悩む、自己を探求する存在として描かれている。小説の主人公たちは、集団に適合した自己を求め、集団への帰属要求が強いが、ドラマの主人公たちは、自己を見つめ、時には自省的にもなり、そして、自分と繋がってくれる別の個性を求めている。
そのため、小説とドラマでは「野ブタ。」のプロデュースの方向性が異なっていることに気づく。小説では、プロデュースにあたって、あくまでも場の中でウケルことが絶対的な価値を持っているが、ドラマでは「野ブタ。」の個性が、まず、重んじられる。
小説の主人公が、結局、自分というものを掘り下げることを回避し、新たな場のアイデンティティーに身を委ねることでしか問題を解決できないのとは対照的に、ドラマの主人公たちは自己を掘り下げ、集団に左右されない個を発見し、そして、最後には繋がりあう。(ネタばれにならないように、と抽象的表現に偏りすぎたため、小説やドラマをご存じない方には何のことやらさっぱり分からない表現になってしまって申し訳ない。)
白岩 玄は、若者のひとつの現実の姿をニヒリスティックに描いたが、木皿泉は、若者が個性を発見していく姿を、希望を持って描いた。木皿のストーリーは、場のアイデンティティーと格闘しながら、個性と出会っていく若者たちの、こころに寄り添うようなやさしさに溢れていた。そこには、なんとも言えない、木皿の温かいまなざしを感じずにはいられない。


メインの展開にさまざまな枝葉の展開が絡むわけだが、そのうちのひとつに、主人公たちに悪意に満ちた悪戯を仕掛けて、その反応を楽しむ少女のエピソードがある。その少女の内面では、「主人公たちを陥れようとする自分」と「そんな自分を嫌う自分」のふたつの人格が格闘しているようなのだが、その少女の内なる格闘が、少女と3人の主人公たち(修二、彰、野ブタ。)に共通の夢として現れるという場面は、超自然的な現象によって、内面の葛藤や相剋が見事に表現されており、全話を通じてもっとも印象的に残る場面であった。ここでは、木皿泉の心理描写もさることながら、岩本仁志の演出にきらりと光るものを感じた。
ここ以外でも、演出の力は随所に感じられた。
校舎の屋上が、主人公たち3人の心の繋がりを象徴的に表す場所であったり、弁当を食べる空き教室が、修二とまり子の心が触れ合う場所であったりと、場所と特定の集団が、意識的に関連付けられて表現されていたことは、効果的に主題を伝える助けになっていたし、場所以外でも、自宅での修二と弟の髪型は、家族の絆を微笑ましく感じさせた。群衆の中の修二や1人自転車をこぐ修二には、修二のモノローグがかぶせられ、集団の中での個や自己の観照を意識させることに成功していた。現実にはいないような戯画化された大人*3の描き方、挿入のされ方も面白かった。その他、スローモーションの効果的な挿入や多彩なカメラアングルなど枚挙に遑がない。


ラスト近くで、修二の呼びかけにクラスの皆が呼応するシーンの安易さなどはご愛嬌*4だが、私にとって『野ブタ―』は2005年を代表する極上の心理ドラマだったことは間違いない。木皿泉岩本仁志両氏の今後に、これからも大いに期待する。

*1:はじめにユニットありきで、ドラマが制作されたのかも知れないが……

*2:どんなに忙しいときでも、家族のコミュニケーションのひとつとして、TVドラマは録画してでも結構見ていたりするのだ

*3:主人公たちのこころのターニングポイントに効果的に登場する

*4:最終話ということでまとめを急がざるをえなかったのだろう