君は友だち


ひどく疲れているのに、まだ仕事は終わりそうにない。
ふと気が抜けたとき、なぜか、随分と会っていない遠くの友だちの顔が浮かんできた。


考えてみれば、というか考えなくても分かるのだが、私には友だちが少ない。
このブログを読んでいる方々の中には、「ひとの悪口ばっかり言っているから(1月16日エントリー「禍転じて……」参照)、友だちがいなくなるんだ」とか思われた方もいるかも知れない。が、それはとんでもない誤解だ。
職場では、ただひたすら朝から晩まで仕事をこなす。家庭では、妻子とともに部屋を片付けたり、ごみを分別して出しに行ったり、娘に「暗いところが怖い」と言われては、一緒について行ったり、息子に「野球が見たい」と言われては、球場に連れて行ったり(自分が見たいだけだろ!)、実によき社会人、家庭人なのだ。私に迷惑をかけている人はいるが、私が迷惑をかけている人はあまり心当たりがない……(本当かよ)。


なのに、友だちと呼べる人は数えるほどしかいない。
もとより、他人にあわすことが大嫌いな性分で*1、自分の意に沿わぬものに好意で誘ってくれた場合、気を使い過ぎてどうしても断れなくなるのが嫌だから、なるだけ「誘わないで欲しい」と常々思っている。予定を立てて、他人と何かをして遊ぼうと企画するのも面倒だし、ひょっとして、気を使って不本意ながら嫌々企画に乗ってくれているんじゃないかと疑心暗鬼になるのも嫌だ。だから、私の意に沿わないお誘いの場合、遠慮なく断ることができる、あるいは私の誘いに気持ちよく乗ってきたり、気楽にそれを断ったりできる人しか、結局のところ、つきあえる人として残っていかないようだ。


じゃあ、そういった人が友だちか、と言えば、ところがどっこいそうではない。
私にとって友だちとは、私自身が誘われたとき、たとえそれが意に沿わないものでも、自分の予定が合わなくても、どうしてもその人と一緒に行きたくなる(当然、相手側からすれば、どうしても私を誘いたいと思ってくれている)人である。ただし、できるだけずっと一緒にいたい、と友だちに対して思ったことはこれまで一度もない。そんな人は、家族か恋人か愛人(何)*2だけだ。
私にとっての友だちは、たとえ何年、何十年連絡もなしに放っておいても平気な人でなければならない。たとえ長い間、何の連絡もしていなくても、私が困ったときに手をさしのべてくれる人でなければならない。そして、相手が困っているときには、何をおいても助けてあげたい人に他ならない。


人と人とのかかわる場所、繋がる場所、そこが社会だと思う。そして、社会には、共通の目的を持った人たちが集ういくつもの場がある。そこは、例えば、職場であったり、学校であったり、クラスであったり、サークルであったり、クラブであったり、webであったり……。それぞれの場で、これまで私は気の合う仲間を見つけてきた。
しかし、ひとたびその輪の中から外へ出て、場の共通のアイデンティティーをなくした立場に立ってみると、個対個としてつきあえる人は、結果的に少ししか残らなかったという訳だ。
友だちと呼べる人たちを思い浮かべてみると、研修医時代の友達が多いことに気がつく。考えてみれば、ともに楽しい時間を過ごしただけにとどまらず、同じ悩みや苦労を抱えながらともに頑張っていた人たちばかりだ(こうしてみると、戦友というものはその極みに位置するものなのかもしれない。)けっして恵まれた時期ではなかったが、私にとってはかけがえのない、忘れられない時間だったと思う。
お互い依存しあうだけの関係も、生きるために必要な場合は多い。しかし、そのような関係をはるかに越えた真実の友だちを、うちの子供たちにもこれから見つけていって欲しいと切に願っている。

*1:仕事での協調性はあるつもりです。誤解されませんように……

*2:いません。念のため。