自立と壁


毎週楽しみに観ていた女王の教室|日本テレビが終わってしまった。
観ておられなかった方のために簡単に説明すると……
天海祐希演じる女性教師が、受け持ったクラスの小学生を「これでもか」とひたすら苛め抜く話なのだが、面白いことに苛めに耐え抜いて一人二人と自立して行く生徒が生まれ、生徒間に友情が生まれ、最後にはクラス全体に結束が生まれれて行くという荒唐無稽な物語である。
あれだけ苛められた生徒たち皆が最後には先生を大好きになったり、苛めで潰れてしまったり脱落したりする生徒が一人もいなかったり、あまりに簡単に親がうまいこと丸めこめられてしまったりとか……極端にカリカチュア化したところが目立つため、そちらに目を奪われるてしまうと「とてもくだらないドラマ」とか、あるいは、苛めが正視に堪えない(実際に苛めにあっている被害者にはそう映っても仕方ないところはある)「けしからんドラマ」とかといったふうに視聴者の眼に映ったり、逆に生徒を導く「理想の教師像だ」といった的外れな意見も飛び出したりもしているようだ。


このドラマの肝は子供の自立の大切さを真正面から描いたところにある。
これまでの学園ドラマは、教師が皆のよき理解者で仲間であったり、あるいは人の道を説きそして教える指導者であったりといったものばかりで、生徒が自ら解決して行く力を身に付けて行くことを主題に置いたドラマはあまり記憶にない。
生きる力というものは人から教わることで身に付くものではない。壁にぶつかるたびに悩み、苦しみ、考え抜き、自分自身の力で問題を解決して行くことによって初めて身に付くものだと思う。
そして、鬼教師はその自立を促すための壁としての役割を与えられている。
子育ての中で親や教師は時として子供にとっての壁となることも必要であると思う。
しかし、それは個人が生きていく上での障害となる悪意に満ちた壁ではなく、あまりに野放図に社会のルールや人の道に外れた行動を子供が取ろうとした時の壁であり、この物語の鬼教師のような壁ではない。
あくまでも子供の自立を促すのは、子供の行動や考えを認めてやることが基本であり、したがってこの物語での教師像が理想の教師だという考えに与することはできないし、製作者の意図するところも理想の教師像を描こうとしたのではないだろう。
主題はやはり壁に当たりながら成長する子供の姿であり、鬼教師はそれを描くための狂言回しに過ぎないと思う
そして、実は鬼教師が苛めた生徒の様子を人一倍心配しながら見守っていることをひたすら隠し続けており、悪意に満ちた壁としての役割を演じているだけというところにドラマでは救いを持たせてある。
徹底的に苛めているようでいて、逃げ場のないところへ追い詰めるのではなく、「勝手にしなさい」と自分で考え行動する自由を与えていたり、生徒の質問に答える形で生きていく上での真実を語っていたりするところも面白い(ただし、最終話が鬼女性教師が実はいい先生だったということを強調する方にだけ流れてしまったのは残念だった。)
このような荒唐無稽なストーリーを通じて語ることにより、一歩間違えると「そんなあほな」といわれるだけに終わってしまいがちだが、しっかりと主題を伝え、しかも緊迫感を保ちながら退屈させないテンポのある演出は見事だった。
泣きそうで泣かない、微笑みそうで微笑まずに最後で微笑んだ天海祐希(エンディングのダンスも素晴らしい)、苛めに耐え自立して行く過程を見事に演じきった志田未来、両女優の好演も心に残った。
女王の教室」、いいドラマだったと思う。