死を迎えるとき


義姉のお母様が亡くなられたので、通夜に出かけて来た。
七月の陽射しは夕方になってもまだ眩く、クマゼミの声も今日は暑苦しく耳障りだ。
空気がぬるま湯のように体に纏わりつき、礼服の裏地に汗をかいた太腿や腕がへばりつく。
ホームのベンチで電車を待つ間、2年前の冬、父が死んだ日のことを想い出していた。


その前日の夕食の後、父の様子がおかしいと母から電話を受けた。
ひどく風が強い日で、瀬戸大橋では、瞬間最大23mの突風が吹いていた。
果たして、私が渡り終わって間もなく、瀬戸大橋は通行止めになった。
父が大学病院に救急車で運ばれた事は、午後11時頃インターを降りてから知った。
父は、片田舎の開業医だった。
仕事をする姿を直に目にする機会は少なかったが、通っていた小学校の校医をしていた関係で、予防接種や内科検診の時はよく学校にやって来ていた。
一人一人の注射を終える度に、あるいは,聴診を終える度ににっこり微笑みながら、「よしっ」とか「よっしゃ」とか呟くと同時に子供たちの両肩をぽんっとたたいて、仕事を進めていた。
「お前の父さん、優しいな」と言われると、何かむず痒く、気恥ずかしかったが、一寸嬉しくもあった。
そんな父の姿を見て、初めて私は医者になろうと思った。
医大に着いたのは、午後11時半頃であった。
全くおろおろした様子もないのに混乱しきった母の話を聞きながら、救急部の処置室を覗き込んで見た。
ストレッチャーの上で気管内挿管を受けている父の姿が見えた。
「息子は医者なのでお話を……」という母の言葉は、「処置中なので外へ出てお待ちください。」という担当医の声に遮られた。
「ダメかもしれない……」
漠然とした不安が頭の中を渦巻く。
その場所で現に進行している紛れもない冷徹な現実の中にいながら、自分自身がその現実の真っ只中にはいない様な、奇妙なリアリティーのなさを感じながら、私は,ぼんやりと外の長椅子に座っていた。
父は,重症の肺炎で、多臓器不全を既に起こしていた。
人工呼吸、循環管理等の処置にもかかわらず,血圧は上がらず,酸素飽和度は次第に下がっていった。
私と兄に「たぶん,だめやろう……」と告げられた母は、「そう……」と私たちの方も向かず,真直ぐ前を向いたまま無表情に呟いた。
午前4時過ぎ、ICUに呼ばれた。
私は、しっかりと力を込めて父の左手を握った。
温かい柔らかな手だった。
普段は、私の意見など聞き入れてもくれぬ厳しい父であったが、本当に心底困っている時はいつも優しく微笑みながら、「それしかないんなら,しょうがないわな」と私を支えてくれた父だった。
19の頃、一人暮らしをしていた私のところに、何度か父が一人で訪ねて来たことがあった。
別れの時、父はいつも向こうを向いたまま振り返りもしないで、人目を気にする様子など微塵も見せずに大きく手を振りながら去っていった。
その大きく振られる手に、いつも私は元気と勇気をもらった。
優しい後姿だった……。
ICUのベッドの脇で温かい柔らかな手を握りながら,大きく手を振りながら去っていく父を感じていた。
親孝行らしいことなど何もできなかった自分が悔しく、その温かい柔らかな手をじっと握りしめたまま、「何もしてあげられなくて,ごめんな」と何度も父に謝った。
午前4時25分、父は静かに息を引き取った。
父は、葬儀でお世話になったお上人の保育園の園医もしていたという。
通夜の席で、お上人は父の健診の様子を語った。
私が見た小学校での姿そのまま、聴診を終える度ににっこりと微笑みながら、「よしっ」と呟き、ぽんっと子供の両肩をたたいていたと言う。
私は傲慢にも医師としては既に父を超えたと思っていた。
しかし、一人一人の聴診に真摯に集中し、そして優しく相手を包み込むように診療する父の姿を聞いた時、まだまだ自分が父の足元にも及ばないことに愕然とし、また嬉しく思った。
そして、父の、父親としてのそして医師としての温かさを引き継いでゆくことが,何もしてあげられなかった息子からの何よりの供養になるのだろうだと考えた……。


義姉のお母様は急な死であったらしい。
通夜の席では、気丈に振舞う義姉と涙ぐむその妹の悲しみに耐える姿が対照的で、印象に残った。
果たして自分が死んでいくときはどうだろう、ふとそんな思いが頭をよぎった。
死というものは、けっして遠くにあるものではない、ひたひたといつも自分の背後から押し寄せているものだ、と言ったのは兼好法師だったか、鴨長明だったか……。
いつもそれを意識して生きていくことの何と難しいことか。
鬱陶しい夏の暑い日に嘆きつつ、ブログを終えたい。