障害者自立支援法案に思うこと


先日、小堀隆司氏の『ノンフィクションな日々』というブログを読んで障害者自立支援法案について考えさせられた。
自立支援という美名とは裏腹に、支出をカットすることを主な目的とした法案には、以前より違和感を感じてはいたが、皮肉なことに、そもそも「障害者の自立」という概念がこの法案には全く欠落していることが最大の問題であろう。
この自立支援法案の骨子を読んでみると、応益負担を基本方針としていることが実に介護保険制度と似ている。
障害者と高齢者は要介護者であるという点では共通しているが、だからといって同列に扱うことはできない。

  1. 高齢者の場合と異なり、障害者の介護を経済的に支えているのは多くの場合、親などの障害者を残して先に死んでいく者達である。
  2. 社会の中での存在を考えるとき、高齢者は既に「ゴールした」人たちであり、障害者はこれから「スタートしようとする」人たちである。

1については、既に小堀氏がブログで書かれているので割愛して、2について書きたい。
高齢者の中には勿論いろいろな形で社会に参加、貢献しておられる方々もいらっしゃるだろうが、介護保険制度の利用者に限って言えばそういう方々はごくごく限られている。
つまり、皆、一応の社会への参加を終えた人々である。
そういった人たちにとっては、老後の日常生活動作・活動がある程度支援されることが受益となるのは頷ける。
障害者はどうだろう。多くの場合障害があるために最初から社会へ参加することすらを拒まれている、あるいは、かつては社会へ参加していたことがあっても、その道が現在は閉ざされている人々である。
彼らにとっては食べる、動く、排泄するなどの日常生活動作・活動が支援されるだけでは社会へのスタートラインに立つ条件の一つがかなえられるだけで、とても受益とは言い難い。
しかも、その支援に対して重い障害を持つ人ほど多くの自己負担を課せられることになる。
世の中には障害者以外に弱者と呼べる人は沢山いる。
リストラされ職を失っている人や引き籠りの人……がしかし、健康である限り日常生活動作を行うことには何の不自由もしてはいない。
障害者は、応益負担の名の下に社会のスタートラインに立つことすら困難になろうとしている。
社会からその存在すら認められないということは、どれほど寂しいことだろう。
障害者は社会からお世話されるだけの人間ではない。
自らの責任で決断できる自由と自立した生活を生きる権利がなければならない。
そして、障害者の問題に関して、自分が未来永劫第三者的な立場にいる保証はない。
もっと自らの問題として、この問題を親身に考える必要があると思う。
せめてこのブログを書くことしか、今の私にはできないし、それは何の力にもならないかもしれない(それについての批判は甘んじて受ける。)
ただ、この憤りを誰かに伝えたくて、書かずにはいられなかった。