生きるための知恵


しばらくぶりで、ブログに向かっている。
休んでいる間、あれも書こう、これも書こうと思いついたものはたくさんあったのだが、殆んど忘れてしまった。いい加減なものだ。
今回の休載は、本業が多忙になったこととPCの不調が主な理由だったわけだが、振り返ってみると、このブログを始めるちょっと前から本業は多忙だった、というよりもむしろ、本業が多忙だったからブログを始めたといったほうがいいかもしれない。今、PCの調子はすこぶる快調で(但し、バックアップを取っていなかったこともあって不便極まりないが……)、時間の余裕もできてきてはいるだが、多忙なときほど書こうという意欲が湧き上がってこない。
どうしてか。
思うにこれは心のバランスの問題なのではないか。どうも自分の心の中に矛盾した二つの部分があるように思えるのだ。
私は今の仕事が嫌いではない。それなりに生きがいを持って仕事をやってきたつもりだ。その仕事が多忙になればなるほど、やりがいもあり、さらに集中して仕事にあたってきた訳だが、そんなとき私の中の別な部分は仕事以外のものを求めているらしい。
格好をつけて言うならば、このブログは仕事に押しつぶされそうになった自分の心がしぼりだす一種の悲鳴のようなものに近いのかもしれない。


ユング派の心理学者で文化庁長官でもある河合隼雄氏は、その著書である「こころの処方箋 (新潮文庫)」の中で、この矛盾する二つの部分をそれぞれ「心」と「たましい」と称している。私の解釈では、河合氏の言う「心」とは自分の生き甲斐であるとか価値観であるとか、とにかく十分に自覚された、意識的な心理を指し、「たましい」とは、自覚されてはいない、無意識的な心理を指しているようだ。この「心」と「たましい」は相拮抗して並存しているものではないらしい。河合氏によれば、ひとを支えているものが「心」であり、その「心」を支えているものが「たましい」なのだそうだ。
つまり、いままで自分を支えてきた生き甲斐が大きくなればなるほど、その下を支えてきた「たましい」には重荷になってくるという事態も起こってくる。そのため、これまで仕事が生き甲斐だと思って仕事一筋に頑張ってきた仕事人間が、仕事に向かう興味や気力をあるときを境にばったりと失ってしまうということが実際に起こり得るのだと河合氏は言う。
実際に「心」とか「たましい」とかが目に見えるわけではないし、本当に存在するものかどうかも分からない。しかし、「心というものがあると仮定して話をする方が便利なように、それよりももう少し深く考える場合は、心の下(奥)にたましいがあると考えたほうが便利なことが多い」と河合氏は言う。


そんなものは言葉の遊びに過ぎない、とおっしゃる方もいるだろう。けれども、生き方に行き詰ったとき、実際こんなふうに考えることで新たな道が見えてくることがあるのではないだろうか。仕事が忙しければ忙しいほど、自らの「たましい」に思いを馳せて仕事以外のことにうつつを抜かすことも大切なことなのではないかと思う。


ひとのこころとか、この世の中の真実などというものが簡単に分かる筈もない。
しかし、真実はたとえ分からなくとも、ものの考え方ひとつで生きていくことが随分楽になっていくこともあるだろう。
そんな生きていくための知恵が、この「こころの処方箋 (新潮文庫)」にはいっぱい詰まっている。