戦争への想い


ブログに書き留めたい思いはいろいろあるのだが、せっかく戦争について語りだしたものだから、中身がないことも承知の上でもう少し語りたい。
「浅薄だ」とか、「何も分かっていないのに知った風なことを」とか、いろいろとご批判もあろうかとは思うが、いま少しのお付き合いを……。


私は祖父母、父母、姉、兄、そして私の7人家族の中で育った。
家族の中で戦地に赴いたものは一人もいなかった。
そのことが、私の中での戦争のイメージを希薄にした一因だったのかも知れない。
周りから聞かされる戦争の話とは、食糧難の話か空襲の話か学徒動員の話だった。
その中でもとりわけ戦争の話≒飢えの話であったような気がする。
幼い頃の私にとって、戦争をイメージすることとは、腹をすかしてひもじい思いをしている自分を貧しく想像することであった。


小学1年生と2年生の間の春休みのことだった。
祖父母以外の5人で広島に家族旅行をした際、平和記念資料館にいきなり連れて行かれた。
そこには、焼け爛れた被爆者の様子を写した写真が、これでもかと並べられていた(と思うのだが、平和記念資料館のwebsiteを見ると、当時確かに見た記憶のある被爆者の写真を見ることができない。人権擁護あるいは個人情報保護の見地から外されたのだろうか……。)
悲しみや怒りの気持ちは全く湧いてこなかった。
とにかく気持ち悪くて、なるだけ早く資料館から外へ出たかったのを覚えている。
写真から確実に伝わって来る原爆が生んだ熱とそれがもたらす惨たらしさが、私の貧弱だった戦争のイメージに上書きされ、心に刻まれた……。
思えば、父母から戦時中の話を聞くことはあっても、戦争をどのようなものとして捉えているのか聞いたことはなかった。
当時、父が何を思って幼い私たちにあのような展示物を見せたのか、死んでしまった今となっては知る由もない。
きっと、どんなものが展示されているかをよく知らなかったといったところが真相なのだろうが、私の中では、幼いあの日に見た平和記念資料館の展示が、戦争の生む何とも言えぬ嫌なもの、不気味なおぞましいものの象徴であり、今の厭戦感の原点となっている。


大学の教養課程の頃、法学のレポートで、憲法第九条、日米安保条約、戦争について書いたことがあった。
細かい内容は覚えていないが、趣旨としては自衛のための戦争は避けられない、自分の家族を守るために戦わない訳にはいかないというようなことを書いたと思う。
しかし、実際に戦争に召集された場合を今改めて考えてみると、物事はそれほど単純には進まないことが分かる。
戦いに勝利することが、結果として家族を守ることに繋がるかもしれないが、戦争に召集された場合、まず家族との別れがあり、直接家族を守ることはできなくなってしまう。
自分は家族と離れたところで家族のことを想いながら戦い、家族は別に独自で戦うか、自分とは別の人間に守ってもらうしかない。
そして、自分は命じられるままに、直接には何の恨みもない、自分と同じく家族を持った敵国の人間を殺さなければならない。
戦争の前では、個人の意思など取るに足らない本当にちっぽけなものだと思う。
私は、命令にそむけば自分が死んでしまうかもしれない状況の中でも、何の恨みもない人間を殺すことは絶対に嫌だし、できないと思う。
ただ、平和な今なればこそ、このように考えられたとしても、戦時下の追い詰められた異常な心理状態で自分がどう変わってしまうかは想像もつかない。
だから、戦争が恐ろしいのだ。
たとえピンポイント爆撃で被害を最小限に抑えようとしても、必ず死者や負傷者は出る(あの湾岸戦争の時の、いかにもゲーム感覚の画面での攻撃で人が死んでいくということも不気味なものだ。)
「当たり前じゃないか」と嘲笑する人が大勢いないことを願う。
いついかなる時でも、何の罪もない人間の命は尊いものだということをけっして忘れずにいたい。