戦犯とは


戦犯裁判というものに対する批判は以前よりある。

  • 罪を決定する法的基準が曖昧だ。
  • 弁護人をきちんと立てていない。
  • 証拠の検証が曖昧だ。
  • 裁判を実施する国によって、あるいは裁判官によって刑罰の軽重がまちまち等々

何よりも、敗戦国にのみ戦犯がいて、戦勝国には戦犯はいないというのはどういうことなのだろう。
第二次世界大戦での戦犯は、戦争に勝った連合国側からみた悪い奴ということに他ならない。
そもそも、戦争という行爲に犯罪という概念を持ち込むのは果たして適当なのだろうか?
もしそうであるならば、戦争を闘うものは、犯罪者と犯罪者でないものに二分されなければならない。
どうもしっくりこない。
上官の命令に従って人を殺した……手を下した人間は戦犯ではない。では、正しい行爲なのか?
戦争の過ちというものは、犯罪と同じ次元で評価することは困難なものだと思う。
私たちが為すべきことは、戦犯を責め立てたり非難することではなく、実際に戦犯として問われた行爲にはどのようなものがあったか、その事実を知ることである。
第二次世界大戦で、日本軍が、あるいは日本人がどのような行為を行ったかを知ることである。


戦犯にはA級、B級、C級の分類がある。
よく誤解されているようだが、戦争犯罪の重さから A > B > C と分類されている訳ではなく、これは犯罪の種類による分類である。

  • A級-平和に対する罪 : 主に戦争の計画あるいは遂行の指揮に対する罪が問われた。
  • B級-通例の戦争犯罪 : 戦争の法規または慣例の違反
  • C級-人道に対する罪 : 主に民間人による不当労働の強制や虐待などの罪が問われた。

                    (説明は私の解釈なので大雑把なものです)
第二次世界大戦で日本人が行った残虐行為の例として、南京大虐殺がよく挙げられるが、史実としては今ひとつはっきりとしない。
あったという確証がなければ、なかったということではないと思うし、なかったという確証がなければ、あったということでもないと思う。
しかし、そのようなものとは別に、B級・C級戦犯判例を繙けば、インドシナ半島やフィリピンでの虐殺、捕虜の虐待死、シベリア抑留と何等変わることのない不当労働の強制等の例は枚挙に遑がない。
B級・C級戦犯の行爲を顧みることは、戦争の不条理、悲慘さを私たちに教えてくれる。
そして、第二次世界大戦で特にアジアの国々に日本人が行ったことを私たちは正視すべきだろう。


第二次世界大戦での日本の過ちを省みようと主張すれば、すぐに「自虐史観だ」と反論する人もいるだろう。
しかし、B級・C級戦犯の行ったのと同様の行為がもし他国によって日本に為されたとしたら、やはり心穏やかでいることはできないだろう。
原爆の日終戦の日をきっかけに戦争のことについて考えることはとても大切なことと考えるし、日本の犯してきた過ちについても真正面から向かい合うことが日本人としての責務だと思う。
靖国神社に参拝するよりも、行うべきものは必ずある。
戦死者や戦争の被災者である日本人のみならず、日本人の手によって命を落とした人々に対しても、私たちは冥福を祈るべきである。


最後に国家賠償についても触れておきたい。
戦争の中で起こった全てのことに満足の行く賠償などできるはずもない。
謝罪の気持ち、慰霊の気持ちはかけがえのないものと思うが、できないことはできないと主張すべきであろう。
そして、国家賠償として終わったものは終わった(例えば対韓国)と主張すべきである。
戦後の日本はODA等を通じて中国や東南アジアの発展に大きく貢献してきたと思う。
このことは日本人としてもっと誇りに思っても良いことだろう。
ただ、これまではアジア(特に中国、韓国以外)の人の目にどのように日本が映ってきたのかということが殆んど意識されることはなかったように思う。
政府間交渉だけではなく、日本人一人一人のアジアを思いやる気持ちが今必要とされている。