いかに生きるか、いかに死ぬか


肉体の衰弱とともに、人は食餌が摂れなくなる。
物を噛んだり飲み込んだりする力が弱くなってしまう場合もあれば、身体が衰弱するにつれて食欲がなくなってしまう場合もある。
その結果、脱水症(必要十分なだけ水分を摂れないことが原因で、身体に水分が不足した状態)や栄養障害を生じれば、さらに肉体の衰弱は進行する。
飲食物を飲み込み損なって(誤嚥という)、肺炎を併発することも少なくない。
家庭にそのまま居れば、死んでしまうことは火を見るより明らかだ。
そして、人は病院にやってくる……。


水分や栄養さえ補給されれば、元気で食事ができる状態に再び回復する場合は全く問題ない。
また、水分や栄養が補給されようがされまいが、余命に大差がない場合は水分・栄養補給の治療的意義はない。
問題なのは、水分や栄養さえ補給されれば、生命の危機が当分の間(年余に渡ることも多々ある)避けられ、なおかつ十分に補給されたとしても自力で食事できる状態には絶対に戻らない場合である。
このような場合の治療対象者は脳梗塞認知症などの障害によって寝たきり状態にある高齢者で、さらに自らの意思を表現できないことが多い(進行性の疾病などで身体に障害が生じながらも自らの意思を表現できる場合は、ここでは論じる対象としない。)
家族は言う。
「どうしたらいいのでしょう?」


方法は二つしかない。
一つは、肉体の衰弱が不可逆的に進行した状態と考え、家に連れて帰り、そのまま経過を見ながら介護を続ける方法。
もう一つは経管栄養という方法で、チューブを通じて栄養を体内に流し込む方法である。
経管栄養とは 1)経鼻経管栄養:鼻の穴から食道を経由して胃までチューブを挿入し、そのチューブから栄養を投与する方法 2)経胃瘻栄養:腹壁から胃まで穴を開け、その穴から直に胃に栄養を入れる方法 の二つが主な方法だ。
「胃に穴を……」という言葉に抵抗を感じられる方は多い。しかし、鼻の穴から管を挿入された場合の不快感(鼻の穴〜舌やのどにかけての粘膜に広く分布している神経を管が刺激して吐き気を生じやすい)と比べると遥かに不快感は軽く、最近では経胃瘻栄養が選択されることが多い。


殆んどの家族は経管栄養を選択する。「できるだけ長く生きていて欲しい」という思いもさることながら、「自分たちの決定で余命が限られるのは避けたい」という思いが絡むことは多い。あるいは、治療対象者がすでに介護保険施設に入所している場合、食事ができない状態では施設に帰ることができず、かといって家に連れて帰れば介護する人が誰もいないため仕方なく……といった場合もある。


いずれを選択するにせよ、本人の意思は決定に全く関与しない


Sさんは、床ずれを予防するため壁の方に向けられ静かに横たわっている。眼はしっかりと開かれてはいるものの、壁を見つめているでもなく、かといって生気が感じられないわけでもない。口は半分開かれたまま動かない。
「Sさん……」と呼びかけてみる。返事が返ってくる筈はなく、その表情は悲しみも喜びも失っている。Sさんの胃瘻にはちょうど栄養(牛乳のような液体を想像していただければよい)が滴下されている最中である……。これが経胃瘻栄養を受けているSさんのいつもの食事風景である。
Sさんは今の生に満足しているのだろうか。今の生をどれくらい感じているのだろうか。
Sさんは、誰の思いも届かない奇妙な時間をひとりで生きている。


人は皆生きる権利を持っているとともに、死ぬ権利も持っている。
私たちは生ある限り、そのいずれの権利もこの手の中に絶えず握っているはずだ。
なのにSさんの手の中からは、既にどちらもこぼれ落ちている。
Sさんが何を思っているのか知る術はない。だから、明日も同じように胃瘻から栄養は滴下し続けるだろう。


死は遠くにあるものではなく、いつも自分の傍らにいるものだ。すきあらば、いつでも背後から突然襲ってくるだろう。
自らの意思が表現できなくなり、食餌が摂れなくなったとき自分はどうするか。
意思が表現できるうちにそれを考え、残される者に伝えておくことは、家族を持つ者の義務なのだと思っている