ソチ五輪のフィギュアスケートを観て考えたこと


ソチ五輪フィギュア男子フリーの最終組の演技が進むにつれ、苛立ちがつのっていくのを感じていた。この満たされぬ思いは、いったい何なのだろう。
緊張感のためか、リンクに上がる選手が次々に失敗していく。こんな最終組は、あまり見た記憶がないなぁ…、とか思っているうちに、とうとう、ベストの滑りができた選手が現れないまま、競技は終了してしまった。
最終組では、それぞれに失敗があったにせよ、フェルナンデスの確かなスケーティングや、ステップで舞う高橋の繊細な動きなどには、心揺さぶられるものがあった。そこから分かったことは、誰の演技が優れているかということは別にして、結局、自分は、「プログラムの流れに破綻がない」ことを求めているということだった。
回転不足であろうが、両足着氷であろうが、プログラムの流れに中断が生じるわけではない。羽生やチャンのように、たとえ質の高い演技をしても、転倒してパフォーマンスの流れが中断してしまうよりも、よどみなく演技が流れていくのを欲していることに初めて気がついたのである。
そういった意味で、テンのフリーは素晴らしかったと思う。数々の怪我や病気による調整不足もあってか、スピードこそなかったが、テンは、破綻のない美しいスケーティングを見せてくれた。
ただ、エラそうな物言いで恐縮ではあるが、観ていて新鮮な驚きを感じることはなかった。ショートでの羽生やチャンの演技を観たときのような興奮が湧いてこないのだ。この感じは、女子フリーで、キムやコストナーを観ていた時も同じだった。



観衆というものは、なんて貪欲で残酷なものなのだろう。プログラムの流れに破綻があってはけしからん、きれいで美しいだけでは、物足りん…。



結果的に、羽生やチャンは、テンよりも高得点を得た。採点には詳しくないが、これが、細かいチェックに従って積み重ねられた加点、減点がもたらした結果なのだろう。こうした一つ一つの技に対する評価こそが、フィギュアを競技スポーツとして成立させ、オリンピックで競う意義を持たせているのだという厳然たる事実を、ソチ五輪男子フリーでの採点は、あらためて認識させてくれた。
美しさがもたらす官能と難度の高い技がもたらす刺激・興奮。その価値に優劣をつけることは、至難の技だろう。これまでの論の流れから誤解があるかもしれないが、フィギュアスケートが競技スポーツである以上、最高に美しい演技よりも、誰も成し得ないような高難度の技こそが、最大のリスペクトを持って評価されるべきだと私は考えている。
ただ、どんな高度な技を行っても、プログラムの流れに破綻を来すような失敗があっては、高い評価ができない。ソチ男子フリーでは、羽生やチャンよりテンが評価されるべきだし、バンクーバー男子フリーでは、プルシェンコよりライサチェクが評価されるべきだと思う。
しかし、こんなことは、私の基準でものを言っているにすぎない。繰り返しになるが、全く違う価値観である技と美を同じ土俵で戦わすこと自体、とても困難で、ある意味ナンセンスなことだとも思う。それでも、私は、競技としてのフィギュアが見たい。
優劣の評価のために存在するのは、その時代のフィギュアの権威者たちの間で、出来るだけのコンセンサスをとりつけた採点基準だけだ。バンクーバー五輪男子フリーでは、完成度の高い美しさがより重視され、ソチ五輪男子フリーでは、高度なテクニックがより重視された採点が、演技の優劣を決めたに過ぎないと思う。
時代とともに、そして採点者、競技者、観衆など、それぞれの立場で、美と技の間を揺れながら、演技の評価は変わっていく。それが、自分の評価と大きく食い違っても、それはそれで仕方がないことだと感じている。



けれども、どうしても譲れないところはある。
しつこく繰り返すが、フィギュアスケートは、競技スポーツである。そして、美しさの差は、おそらく極めて主観的な尺度に左右されるだろう。それゆえに、最高に美しい演技よりも、誰も成し得ないような高難度の技こそが、最大のリスペクトを持って評価されるべきだと私は考えている。
私は、女子の選手が、誰一人として試合で飛ぶことのできないトリプルアクセルを何度も飛んでいる浅田真央こそ、世界最高の女子選手だと信じて疑わない。
確かに、コンビネーションやジャンプでの採点基準に従った減点や加点によって、浅田の得点がキムやソトニコワの得点を下回る理屈は分かる。しかし、現状の男子と女子の演技水準を考えた場合、トリプルアクセルを男子が飛ぶことと女子が飛ぶことでは、当然その価値が全く違う。トリプルアクセルは、浅田以外の女子選手の誰も、試合で飛ぶことのできないジャンプであるという事実が、軽視され過ぎてはいないか。トリプルアクセルの成功には、もっと十分な加点が与えられるべきだと思う。そして、トリプルアクセルを成功させ、破綻なくプログラムを終えた浅田真央の演技が最高得点を取れないのであるならば、そのような採点基準は見直したほうがいいのではないかと考える。



バンクーバーで、リスクの高い4回転よりも完成された3回転を見せることを迷わず選んだライサチェクや技の熟成度を重んじた採点に対して、プルシェンコが敢然と牙をむいたのを思い出す。
プルシェンコが見据えていたのは、フィギュアスケートの明日の姿だろう。目先の結果ばかりを求めて、誰もが難しい技に挑戦するのを避けるようになれば、フィギュアスケートは競技としての魅力を失い、やがて支持も失っていく...。新たな世界の扉を叩き続けた開拓者としてばかりでなく、そのような危機感を絶えず持ちながら、プルシェンコは、滑り続けてきたように思う。
プルシェンコの引退が、体調の悪化のため、個人戦を待たずして早まったことは、悲しく寂しいことではあるが、どんな優れた選手も、やがて歳をとり、確実にその日はやってくる。プルシェンコの「これからは、羽生結弦が私のヒーロー」という指名の持つ意味は重いが、彼には、ぜひその心意気を引き継いでもらいたいと思う。そして、プルシェンコに「ファイター」と称えられた浅田真央もまた、まだまだフィギュアスケートを引っ張っていって欲しいと願っている。



スポーツ紙によると、羽生は4.5回転アクセルを試みているらしい。なんとも頼もしい限りだ。
4回転のループ、フリップ、ルッツなども見てみたいなぁ...、安藤以来になる女子の4回転も見られたら...。
欲望は、募るばかりだ。
フィギュアスケートの新たな地平を切り開く選手の出現を心より願う。