『ペコロスの母に会いに行く』〜人と記憶〜


見当識という言葉をご存じだろうか。
見当識とは、自分を取り巻く環境の中で、自分が置かれた状況を正しく認識する能力のことである。
すなわち、時間の流れの中で「今という時」を感じ、自分が存在している「場所」を知り、さらに、周りの人と自分との間にどのような関係が成立しているのかを正しく認識する能力のことを指す。
いうなれば、「時間」「場所」「人」をそれぞれ座標軸として、今現在、この世のなかで自分が存在しているその1点を認識できる能力とも言える。



認知症の進行につれて、見当識は次第に失われていく。
そうなれば、なじみの場所で、なじみの人に囲まれているにもかかわらず、見ず知らずの雑踏の中に突然おかれたような、頼りなく不安な感じを四六時中抱えるようになっていくのではないか。
進行した認知症を患う老人の世界は、自分の立ち位置を見失い、今という刹那を漂う孤独な世界なのかもしれない。



そのような老人にとっての「自分の人生」とは、いったいどういうものだろう。
自分の生きてきた数十年間を確かに感じられるものが、はたして残されているのだろうか。



ペコロスの母に会いに行く』の監督、森粼東は、その答えを過去の記憶に求めた。



「どんな人生だったか」ということを振り返ろうとするとき、日記や手紙などの文章による記録、形となって残った功績、写真やビデオといった映像などという手段もあるが、人生とは、やはり、人の記憶の中に残るものだろう。
自分の記憶の中に残る自分の人生、そして、自分を取り巻く人たちの記憶に残る自分の人生。
それら自分にまつわる記憶のすべては、自分の人生のひとつの形といってもよいだろう。



認知症を患っても、過去の記憶は、長らく人の中に残る。
そして、たとえ新たな記憶を増やすことができなくなり、自分の存在すら不確かなものとしか感じられなくなったとしても、周りの人たちの中には、自分に関する記憶は残っていく。



森粼東は、登場人物の過去の数々の記憶をフラッシュバックさせ、積み重ねることで、認知症を患った老人の人生を丁寧に周到に描いていった。
認知症への対応をめぐる家族の戸惑いを描いた作品は数あれど、認知症の老人の人生とその家族の関わりを描いた作品は、少ないように思う。
「記憶」に拘り、認知症を患った老人の人生そのものに真正面から取り組んだ『ペコロスの母に会いに行く』は、森粼が自身の認知機能の衰えを自覚しているからこそ撮れた映画なのかもしれない。
この映画は、記憶が去り行く寂しさのなかで、「自分の人生の価値はどこにあるのか」、「認知症の老人の人生の価値はどこにあるのか」という、自らに投げかけた必死の問いに対しての、森粼東の答えのように思えるのである。



カンテラ祭りでの母を囲む一枚の写真は、せつなく、温かく、美しい。
それは、認知症ならではの、時空に縛られることのない記憶と見当識が生み出した至福の一枚のように思えた。



ペコロスを演じた岩松了の軽やかさ、若かりし頃のペコロスの母を演じた原田貴和子のひたむきな演技も心に残った。



最後になりますが、森粼監督を支えたスタッフの方々には、深い敬意を感じずにはいられません。
本当に良い映画を有難うございました。
そして、『キネマ旬報』邦画年間1位、おめでとうございました。


(文章の内容の1部を1月12、13日に修正、加筆致しました。)