忘れてはならないこと


様々な物議をかもして、金賢姫が韓国へ帰って行った。
めぐみさんが何匹か猫を飼っていたことや、チヂミでおもてなしをしたといったような僅かなエピソードを一所懸命に語る横田さんご夫妻のお話には、胸に込み上げるものを感じた。「安心した。」とさえ語るご夫妻の表情には、うっすらと微笑さえ浮かんでいるようにも見え、それがかえって、第三者には測り知ることのできない、拉致がもたらした空白の期間の重たさを滲ませていた。
横田めぐみさんの北朝鮮での生活が恵まれたものではないくらい容易に想像される。金賢姫によって語られたことが真実かどうかも分からない。
横田さんご夫妻も、十分承知された上でのことと思う。そして、金賢姫が一度しかめぐみさんに会っていないという事実は、どれほどご夫妻をがっかりさせたことだろうと想像するに難くない。
それでも、娘が北朝鮮で少しでも自分らしい暮らしを送れていたことを願う。僅かなエピソードにも、その痕跡がないかと追い求める。突然、家族の絆を断ち切られた親の、ひたすら子を思い続ける気持ちが滲み出た微笑であった。
私たちは、日本という独立国家で拉致という北朝鮮の国家的犯罪があったことをけっして忘れてはならない。そして、今もなお、拉致された肉親の生存を祈り、ひたすら帰国を待ち続けている人たちの気持ちから目をそむけてはならない。
哨戒艇の沈没が当然俎上に上がるASEAN地域フォーラムを前にしての時期であったことや、前後して、田口八重子さんの生存を窺わすような新たな情報が韓国サイドから伝わってくるといった、韓国の外交戦略が色濃く見える来日であった。そして、どのような外交上の取引があったかは分からないが、大韓航空機を墜落させたテロリストに対して、VIP待遇でもてなすのは如何なものかという意見もメディアを賑わせた。
その通りだと思う。けれども、私たちが忘れてはならない大切なことが、そういった意見に、ともすれば、かき消されてしまいそうになったことが残念でならない。そして、メディアに登場する数多のコメンテーターならまだしも、(民主党に点数稼ぎの思惑があったかどうかは別にして)金賢姫への待遇を声高に批判することで党利党略に終始した政治家がいたことには深い失望を感じた。
「20年以上前の情報しかもっていない金賢姫の来日に意味があるのか。」
市井の人のみならず、拉致被害者家族の中からでさえ、そんな声が聞こえてきたこの度の来日。拉致被害者に今もなお対面できていない家族の内で続いていることが、帰国を果たした一部の家族の内では終わりつつあるのかもしれない。

拉致を風化させてはならない。