地域で生きていくということ


慣れ親しんだ土地で生涯暮らして行こうと思うとき、歳をとるにつれて、いろいろな問題があることに気がつく。
毎日の食事は、どうするのか。どこへどうやって買い物に行って、誰が作って、配膳をして、後片付けをするのか。洗濯は?掃除は?庭には草が伸びてきている。近所の公園や川の堤防の掃除の当番はどうする……?
元気なうちは問題にならないことも、体の自由がききにくくなったり、記憶が曖昧になり物事の判断ができにくくなったりすれば、たちまち障壁となり生活の前に立ちはだかってくる。自分のことに限らず、ともに暮らす家族に問題が起こっても、同じことだ。
「家族仲良く助け合いながら、平穏無事に日々の生活を過す」というライフスタイルに重きを置いている人は、多くはないだろう。それだけに、介護の問題は、働き盛りの世代にとって大きな負担となっている。
自分以外の者の生活を援助しようとすれば、自分がやろうと思っていることが、そのぶんだけ犠牲になるのは理屈だろう。介護は、働き盛り世代の生活を直接に侵食する。介護から逃れようとしても、セーフティネットが確立していないことは、大きなストレスとなって重くのしかかってくる。
同居にせよ、別居にせよ、家族の中で役割分担がきちんと成立していれば、自立した生活を送れなくなったとしても、家族の援助を受けながら生活していくことは可能だ。しかし、現実には、家族の援助が期待できないまま、高齢者一人の世帯、高齢者夫婦のみの世帯、70台の高齢者が90台の高齢者を介護している世帯などが、私の働く地域ではどんどん増えてきている。働き盛りの世代が同居している場合でさえ、自分たちの日々の生活に窮々として、介護に時間を割く余裕が経済的にも、精神的にも、次第になくなってきているのを感じる。
要介護者のセーフティーネットという観点から考えれば、通所介護デイケア、デイサービス)や、訪問介護(ヘルパーによる家事援助など)などの介護サービスは、家族による介護の隙間を埋める役割を果たしてはいるが、裏を返せば、自立できない高齢者の介護が、100パーセント家族に委ねられる時間帯も存在するということになる。家族による介護力が弱体化している現状を考えると、「何も起こらないでくれ」と祈るような気持ちで通所サービスから家に送り届けることも珍しくない。家族による援助が破綻し、介護施設への入所も、在宅での生活もできない高齢者の増加は、介護保険などの公的な援助では既に支えきれなくなって来ている。
財源を確保し、新たなサービスを創設することで介護サービスの守備範囲を広げるのは、一つの方法だろう。だが、その財源の確保は困難を極めるだろうし、新たなサービスを受けるための介護度の認定の問題や、サービスを受けることで増額する自己負担の問題もある。
自立した生活を送ることのできない高齢者が、住みやすい地域を創ること。それは、これからの地域づくりに欠けてはならない視点だと思う。身近で、しかも金のかからないサービスを提供するシステムを創り出すためには、結局、地域に住む人たちが協力し合い、ボランティアとしての労力を結集することしかないように思われる。地域に住む人たちが連携して、町内会などを活用した組織作りを行うのである。
遠くに住んでいる家族を見守ったり、援助したりすることは、けっして容易ではない。かといって、呼び寄せて一緒に暮らすことは、なおさら難しい。考えようによっては、身近に暮らす高齢者を援助することの方が、簡単な場合はいくらでもある。「近くに暮らしている」ということが、生活の援助にはなにより大切なのだ。
地域住民相互間の連携をどのように作るか、あるいは、他者の個人情報や生活そのものへの介入がどこまでできるか等といったクリアすべき困難な問題はいくつもあるが、けっして不可能なことではないようにも思われる。
人はみな歳をとり、やがて老いていく。どこの地域に住んでいようと、早死にしない限り、それは誰しもが、いつかは直面する問題なのだ。私たちは、自分たち自身が直面している問題に、当事者としての自覚を持って、真摯に立ち向かわねばならないだろう。