バンクーバーとトリノ〜女子フィギュアに思う〜


バンクーバーで演技を終えた浅田は、「悔しい……」と涙で言葉を詰まらせた。

キムヨナと浅田真央。N0.1の座をかけての二人の戦いは、ジュニア時代にまで遡る。これまで浅田は、敗れたときでさえ、王者としての矜持を持ち続けていたように見えた。
金メダルを逃した悔しさや自分のベストのパフォーマンスができなかった悔しさはもちろんあっただろう。だが、バンクーバーでの結果は、キムヨナこそN0.1だという事実を、初めて浅田に受け入れることを迫っているかのように、そして、その苦しさから浅田が涙を流しているように思えてならなかった。バンクーバーでの悔しさは、世界選手権に勝った今でも、消えることはないだろう。


フィギュアスケートが競技スポーツである以上、その演技は、採点という手段で定量化されねばならず、そして、その基準は、技の難度に準じた厳格なものでなければならない。一方、コンビネーションやシークエンスを含めた技の難度に優劣をつけたり、ましてや、難度の高い技が失敗に終わった際の評価をどうするかなどといったりしたことに関して、万人の合意をとりつけることは、とうてい困難な問題に違いない。
幸いなことに、バンクーバーでは、ライサチェクプルシェンコより優れた演技をし、キムは浅田よりも優れた演技をした(ように私には見えたし、世間でも概ねそのような評価だったと思う)ので、採点結果に従った表彰台での順位は、プルシェンコがどう言おうが、妥当なものに思われた。
だが、トリノでは、現行の評価基準の持つ欠陥が露呈されてしまう。浅田のフリーの得点がキムのフリーの得点を下回ったのは、素人目にも陳腐に映った。採点基準の問題は、フィギュアスケートの競技スポーツとしての根幹を揺るがしかねない問題であるように思われる。


現行の採点基準が大きな問題を抱えているのは確かだが、たとえどんな採点基準であろうと、それが公にされた上で大会は開催されていく。高く評価されたいのであれば、自分の技量に応じたエレメンツを上手に取り入れ、高得点の出やすいプログラムを作成していくしかない。
私は、採点基準に関して詳しくはないが、トリノでの結果を見れば明らかなように、キムのプログラムは、どうも高得点を叩き出しやすいようだ。だとしたら、浅田陣営は勝てる戦略を見誤った、あるいは、そういった戦略を取らなかったか、取れなかったというしかない。
現行の採点基準の下、今のような演技構成で戦うならば、今後は長洲にも勝つのは難しくなるだろう。浅田も、それに関しては十分に承知しているようで、「ルッツや3回転−3回転も、練習し取り入れたい」「明るい曲も滑りたい」とトリノから帰国してのインタビューに応え、暗にタラソワの路線を否定した。


いろいろと議論はあるだろうが、浅田の『鐘』というプログラムは、曲の世界をみごとに表現した完成度の高いプログラムだと個人的には感じている。確かに、曲調は重たく、陰気と言えないこともないが、その暗いメロディーから沸々とわきあがってくる祈り、情念の昂ぶりを、切れのあるスケーティングが伝えてくる。力強いプログラムだと思う。
特に、終盤の切り返しの多いステップの部分は見応えがあり、このプログラムの白眉と言ってもいい。バンクーバートゥループを失敗した後に見せた浅田の終盤の演技には、まさに鬼気迫るものを感じた。
浅田には、浅田の個性があり、キムにはキムの個性がある。競技である以上、競技者や観衆が勝負に拘るのは当然のことだとは思うが、そこに表現されるものを味わうこともフィギュア観戦の醍醐味といえるだろう。彼ら、彼女らは、競技者であるとともに表現者でもあるのだから。
そういった意味では、『鐘』は、居並ぶプログラムの中でひときわ異彩を放っていた。そして、苦戦の末、オリンピックイヤーの今季になってようやく、明るく天真爛漫な浅田のスケートに新たな魅力を加えることができたように私には思えた。
『鐘』で勝負をかけたことは、戦略的には失敗だったかもしれない。けれども、この『鐘』という楽曲にこだわり、妥協のないプログラム(ルッツからフリップへの変更を余儀なくされたが、プログラムの完成度に大差はないだろう)を創り上げたタラソワの表現者としての力量は、大いに賞賛されるべきものであると私は思う。

 『カールじいさんの空飛ぶ家』〜夢をみるということ


どこのうちでも見かけられる光景だが、うちの娘も、小さい頃、よく一人遊びをしていた。「○○ちゃん」という架空の友達がお気に入りの様子だったが、相手がまるで眼の前に存在しているかのように振舞っていたのを思い出す。
それを眺めていると、娘の空想の中でしか存在し得ない「○○ちゃん」が、彼女にとっては、もっとリアリティーを持った存在のように見えた。つまり、娘にとっての空想の世界は、まぎれもないもうひとつの現実の世界として存在しているように思われた。
かように子供は、空想の世界と現実の世界を自由に行き来する。彼ら、彼女らには、二つの世界が別の世界であるということは意識されていても、どちらがリアルな現実であるかを認識することは、さして意味を持たないようにさえ思われる。
やがて、空想が現実と関連付けられる時、それは将来の夢となり、明日のあるべき自分の姿へと繋がっていく。とはいえ、その子供たちの夢の原型は、現実の世界の中で実現可能なものかどうかなど吟味されたものではなく、戦うヒーローであったり、大富豪であったり、華やかなディーバであったり、ピッチの王様であったりする。
こういった無責任ともいえる夢の存在は、子供らしい天真爛漫なのびやかさや活力と無関係ではあるまい。大人の夢は、日々の仕事や生活の中で、絶えず実現の可能性を検討する必要を内包している、いわば目標のようなものである。もちろん、それも、明日への活力を生み出すものであるが、それと同時に生みの苦しみを伴うものでもある。
では、老人の場合はどうだろう。過去にできていたことが次第にできなくなっていく身体の状況が、より良い明日のイメージを描きにくくしてしまうのではないかと容易に想像される。そのような生理的な状況の中で、老人が、今日を生き、そして明日を生きていこうとする活力を次第に失いやすくなるのも、無理はないだろう。


カールじいさんの旅は、亡き妻の夢を叶えようとした、ロマンティックな愛情に溢れた旅ではあるが、厳しい現実との軋轢で自分の居場所をなくしたあげく、心地よい過去の思い出に逃げ込むことで自身のアイデンティティーを見出そうとした、後ろ向きの感傷的な旅でもある。少年と犬をお供にしての冒険の旅が、じいさんをどう変えていくか。そこが、見所だと思う。
例によって、エエもんとワルもんの争いに、イロもん的なキャラクターを絡ませることで盛り上げていくピクサーお得意の冒険活劇である。そして、これまた例によって、実に見事な職人芸的ともいうべきアニメーションも見せてくれる。
カールじいさんの空飛ぶ家』は、古典的なストーリー構成と計算されつくした映像を器として、「夢をみること」という深いテーマを盛った、まさにピクサーの王道を行く素晴らしい作品だと思う。私自身も、自分の老後について考えるとともに、「自分の仕事を通して、高齢者の方たちに『今日を生き、明日を生きようとする活力』を与えるために何をすればよいか?」というテーマについて、あらためて考えさせられもした。
とりわけ、これから老後を迎えるだろう年齢の方に、ぜひ観ていただきたい作品である。


<おまけ>
カールじいさんの空飛ぶ家』や『アバター』では、3Dが話題になっている。が、確かに3Dは、映像に奥行き感じさせることで新たな効果を与えてはいるものの、それ以上のものでもそれ以下のものでもないというのが、率直な感想である。
カールじいさんの空飛ぶ家』の魅力は、画面に繰り広げられるひとつひとつの絵の構図、キャラクター、タッチ、色、それをつなぐ動きの素晴らしさであり、そのストーリー性であると思う。『アバター』の魅力は、イマジネーションの洪水のような世界を構築し、それを映像として見せたところにあると思う。そして、これら二つの映画の魅力は、3Dであろうと2Dであろうと動じることのないものだと私は信じている。

 仕事との距離感

「謙虚に受け止める」というのと「必要以上に卑下しない」ということの両方ができてないとダメですよね。
自分がやった結果に対しての距離感というのかな。そういうのってすごく大事で、若い人を見てると、できてないんですよ。やっぱり。

Wii Fitなどに関わった任天堂宮本茂さんの言葉だ('09 ほぼ日手帳より)。


私は、無神経なせいか、仕事で失敗したことは数知れずあっても、そのことでひどく落ち込んだ経験は少ない。けれども、誠心誠意行い、内容も悪くないと思っていた仕事が、相手から不当な評価を受ける、あるいは、真意が相手に伝わっていない時、無性に腹が立ち、悔しさで深く傷つくことは、幾度となく経験してきた。この歳になってさすがに感情のコントロールはできるようにはなってきたものの、似たようなことは未だに数多くある。


先日、発熱した患者さんを診察した時のことである。簡易のインフルエンザ抗原検査は陰性であったものの、鼻水、喉の痛み、咳、38℃以上の発熱、関節痛や筋肉痛といった症状が、最初の症状が出現してから24時間以内に出揃っており(その方は、症状の初発から約6時間で来院されていた)、しかもインフルエンザに感染した人との濃厚な接触があったということを考慮すれば、臨床的にはインフルエンザと診断すべきであると考えられた。
ご周知のように、簡易インフルエンザ抗原検査は、インフルエンザ感染後、徐々に反応が増強し、感戦後48時間でピークの反応を示す。注意しなければならないのは、検査の感度というものがあり、ある程度以上インフルエンザウイルスが鼻腔内で増殖していなければ、反応は陰性となるということだ。したがって、特に発症からの時間経過が短い場合、検査結果が陽性であれば「インフルエンザである」と診断できるが、検査結果が陰性であっても「インフルエンザではない」と診断することができない。
私は、患者さんとそのご家族に、検査結果が陰性であったこと、簡易のインフルエンザ抗原検査の仕組み、そして、患者さんがインフルエンザにかかっている可能性が高いと考える根拠などを説明した上で、抗インフルエンザウイルス薬を処方することを告げた。そして、その後の予想される経過なども簡単に伝えて診療を終えた。
その数時間後、「熱が下がらない」とその方たちが、再び来院された。「さすがに、まだ熱は下がらないだろう」と思いつつも、服薬状況を確認する意味で尋ねてみた。
「インフルエンザのお薬は、何時頃飲まれましたか?」
「えぇーっ、インフルエンザなんですか。だって検査は陰性だったんでしょう。」


このような例は、さすがに日常しばしば遭遇するわけではないが、それほど珍しいことでもない。
自分では必要十分な情報を伝えたつもりでも、受け取る側がそれを十分消化して理解できていない、あるいは、伝えたつもりが伝え忘れているということが、限られた診療時間の中では起こり得る。結果、こちらの思いは相手に届かないで終わる。
自分としては満足のいく、せいいっぱいの仕事であったとしても、それが相手に伝わっていなければ何の意味も持たない。10の仕事が、6しか相手に伝わらなければ、その仕事の結果は残念ながら6でしかない。10の内容があったつもりでいた仕事の評を結果から6と受け止める。これもまた、「謙虚に受け止める」ということなのだろう。


使命感を持って仕事に心血を注いでいる上司がいたとする。あやふやな想いのまま、仕事をノルマとしか捉えられず、タラタラと働く部下が、これまた、いたとする。上司の眼から見れば、部下の仕事は理解できない腹立たしいものに写り、結果、部下は呼びつけられ、上司の怒りを丸ごとぶつけられることになる。怒りをぶつけられた部下は、上司の言葉に感情的に反発するか、ショックで落ち込んでしまう……。
上司、部下ともに問題なのは、仕事の結果を自分の感情を絡めて評価しているところである。上司の怒りが、仕事の結果に対する冷静な指示や指導を見失わせ、部下は部下で、評価が仕事に対する結果よりも自分に向けられたもののように感じ取ってしまう。これが仕事とのいい距離感が取れていないということなのだろうと思う。
このような経緯で落ち込んだ方が、先日、「眠れない」と言って診察場を訪れた。
客観的に評価すると、原因は明らかに部下の側にあるが、かといって怒りをぶつけた上司の仕事も適切だったかといわれると、そうではない。
こういった時、怒られた理由や上司の熱い想いを理解してもらおうとしても、無駄骨に終わることが多い。もやもやと渦巻く上司に対する反感が邪魔をして、その言葉を素直に受け取ることができなくなっているからだ。大切なのは、上司にめいっぱい怒られた部下の気持ちを理解しようとすることのように思う。
私はカウンセラーではないし、その辺のことは頭では理解できていても、実際にはうまくできない。診察の順番を待っている人も大勢いる。それを思うと、私の気持ちもいらだってくる……。
苦し紛れに私は提案した。
「仕事のことで注意したり、指導したりする際に、怒りの感情をぶつけてしまうことは、理由はどうあれ、好ましいことではないと私も思います。けれども、自分のことなら努力すれば可能かもしれませんが、他人の行動や感情を変えようとすることは、とても難しいことです。そこで、こうしてはどうでしょう。怒られた時は、相手のことを『ちいさい奴』と思ってみるのがいいんじゃないでしょうか。」
その後しばらくして、アドバイスがよかったかどうかは分からないが、その方は元気を取り戻してくれたようだった。けれども、余計なお世話かもしれないが、上司の方も、怒り過ぎでストレスが溜まり体を壊してやしないかと、なんとなく心配にもなってくる。


かくいう私も、仕事とは上手な距離感が保てているような気がまったくしない。来年こそは、良い距離感を保ちながら上手に仕事と付き合っていきたいと切に願っている。


今年のエントリは、これで最後になります。お越しいただき、たいへん有難うございました。来年も、これまでと同じくチンタラとした更新になると思いますが、今のところ地味に続けて行こうと思っていますので(笑)、もしよろしければお立ち寄りください。

 イーグルスのことなど


考えがまとまらないから書かないのか、書かないからまとまらないのか……、そんなつまらないことを考えながら、たらたら書き始めている。


地味に応援してきた東北楽天ゴールデンイーグルスが、北海道日本ハムファイターズに敗れ、今季のプロ野球も終わった。
「何で楽天なん?」
以前は、よく尋ねられた。プロ野球そのものが解体されてしまいそうな危うさの最中に、火中の栗を拾うかのように誕生した球団を、何としても応援したいと思わなかったわけでもないが、一番の理由は別にあった。ただ、「球団創設以来のファン」というものになってみたかったのだ。なんともミーハーな動機だと思う。だが、親会社が交代するに留まらず、プロ野球創成期でもないこの時代に、全く新しい球団が誕生する機会に出くわすことなど、おそらくこの先も経験できるかどうか。これを逃す手はないと思った。
次に勝てる日はもう来ないような気さえしていた最初の2年。見切りの早い自分が、未だにファンでいることが不思議に思える。それほど自分にとって「球団創設以来のファン」ということは、価値あるものに思われた。徐々にチームが力をつけてきた現実に慣らされてしまったせいか、CS進出の喜びは想像していたほどではなかった。それよりも、あの頃の目先の1勝は本当に嬉しかったなぁと、今、しみじみ思い出している。
イーグルス躍進の要因としては、ドラフトの成功と並んで、野村監督の手腕を挙げてもいいだろう。さらに、野村のメディア向きのキャラクターと練られたコメントが、勝敗に関係なく、楽天という球団にコンスタントに注目を集めさせたという事実は、何物にも代えがたい大きな功績だと思う。その監督をどうして解任するのか。成績不振という大義名分のない分、田尾解任の時よりも、さらにすっきりしない ( 「うっとーしかったんです」とかは、まさか言えまい(笑) )。まるで店舗のリニューアルオープンのように監督の首を挿げ替えようとする球団経営は、さすが流通の雄。
私自身は、野村監督には何の思い入れもない。というか、あの屈折した感情表現にはきっと閉口するだろうから、もし身近に居たなら、できるだけ避けて通りたい。それに、もし仮に来季も優勝を争うということになれば、今の層の薄いひ弱な戦力をいっそう消耗していくような戦いをやりかねないという危惧もある。現に、シーズン終盤の岩隈には、消耗の影が漂っていた。
だから、(以前、有力な候補として挙げられていた東尾なら勘弁して欲しいが) 後任として、ブラウンが来るならまぁいいかなと思っている。
だが、こんな1ファンの与太話と同じレベルで、球団が監督を解任することは、当然、あってはならない。きちんとした解任理由を顧客であるファンに対して説明する必要があるだろう。顧客サービスの原則と基本をはずしてはいけない。こんなことでは、本業も危うくなるぞ、楽天


イーグルスが敗れ去った後は、ファイターズが勝とうが、ジャイアンツが勝とうが、知ったこっちゃなかったが、ペナントという長期戦を制した両リーグの覇者が、短期決戦でも他を圧倒する実力を見せつけたのは、痛快ですらあった。そして、この理想的で健全な展開を踏まえた日本シリーズは、横綱相撲のような見応えがあった。
それにしても、ダルビッシュのカーブは良かったな。なんでシーズンも使わないんだろう。大好きなバッターの阿部もいいところで打ったことだし、なんだかんだ言っても、結果的に一番強いチームが一番てっぺんに立った、座りのいい日本シリーズだったと満足している。


本当は『わたしの周りで』のカテゴリで書き始めたエントリでしたが、野球関連の話題で長くなりすぎてしまいました。わたしのことは、また別の機会に ( いつのことやら……(笑))。

 森山直太朗


3年くらい前だろうか、ミュージックフェア森山直太朗が『ハナミズキ』を歌うのをたまたま耳にしたことがある。
「空を押し上げて 手を伸ばす君 五月のこと……」
最初のフレーズが聴こえてくると同時に、空に向かって伸ばす手と青空が見えたような気がした。


森山直太朗は、ときに繊細に、ときに野太く、歌で世界を紡ぎだす。
歌がうまい歌手は数多いるが、歌が「世界を表現することができる」手段の一つなのだということを、あらためて気付かせてくれる稀有な歌い手のひとりだと思う。
彼の『高校3年生』(ちなみに舟木一夫のあの名曲とは別の歌です)を聴くと、夏の陽射しの中で母校の塀際に暑苦しく紅く咲いていた夾竹桃や誇りっぽい制服の匂いや放課後の翳った教室の空気が、高校時代の思い出とともに甦ってくる。
『諸君』を聴けば、就職口が決まらなかった頃の日々が、リフレインする。「週休六日の毎日じゃ、相手にしてくれないね」というフレーズにじんわりと疼きを覚えつつも、なんとかなるだろうと自分に言い聞かせながら、明るく開き直っていたことが、今となっては懐かしく思い出される。


メロディーの添え物として消費されていくような出来の悪い歌詞ならば、歌が表現する世界も安っぽくなりがちだが、御徒町凧の詩は、それ単体でも、輪郭のしっかりとした世界を描いている。この確かな詩の世界があるからこそ、歌唱の表現力が生きてくるのだろう。


もしもあなたが 雨に濡れ
言い訳さえも できないほどに
何かに深く 傷付いたなら
せめて私は 手を結び
風に綻ぶ 花になりたい   (『花』)


何にもないとこから
何にもないとこへと
何にもなかったかのように
巡る生命だから      (『生きてることが辛いなら』)


洞察に満ちた言葉で描かれる心は温かく優しい。


という訳で、森山直太朗のコンサートツアー『どこまで細部になれるだろう』に行って来ました(といっても、随分前の話ですが……)。
正直なところ、少人数でのアコースティックなバンド編成に徹していたところや、単調に感じやすい曲順には、若干、不満も残りましたが、歌よし、MCよしで、森山直太朗の魅力を存分に堪能してきました。
いやぁー、しかし、『さくら』は、本当に良かったなぁ……。直太朗の作品の中でも、あまりにポピュラーすぎるこの歌への格別な思い入れはなかったんですが、本当にいい歌だと思いました。未だに進化している『さくら』の歌唱、とにかく驚きでした。
言葉が歌になり、歌が世界を作る……。
森山直太朗には、これからも心を揺さぶる歌を、集中力を切らすことなく歌い続けて欲しいと思います。

 『グラントリノ』〜人の生きる姿をきめ細やかに描く


次の仕事の段取りなどを考えながら、何をするでもなく勤務先の敷地を歩いていたとき、すぐ傍らを燕がツーと滑っていった。はっとして眼で追うと、病棟の車寄せの軒に巣があるのが見えた。雛がいるのか、ピィピィと声が聞こえてくる。耳を澄ますほどでもない、十分な音量なのに、今日までこんなところに巣があるのには気付かなかった。
周りに気付かれるでもなく、それでも確かに燕の生が営まれている。さらに多くの生が、気付かれることなくひっそりと、それでいてしっかりと、私たちの周りで営まれていることをあらためて意識する。
ひとの人生にしたって、似たようなものだ。それぞれの人にそれぞれの人生がある。その殆どが、お互い交わることなくそれぞれ通り過ぎていく。
そんな中で人と人が出会うとき、そこに至るまでにお互いが過してきた大切な時の流れがあったということを意識したり、お互いの人生が偶然交錯した幸運に感謝したりすることは、きっと必要なことなのだろう。
燕の巣を眺めながら、今年から京都で暮らしている息子のことを考えていた。
別々に暮らすようになって、彼の父として私が振舞わなければならない場面は随分と少なくなった。というより、ここ数年、息子が成長し自立してくるにつれ、父として何かしてやらなければならないということは、殆どなくなって来ていた。それでも、お互い顔をあわせるとき、私は彼の父であり、彼は私の息子という役が当然のように割り当てられる。お互い別々に暮らすようになって、それがなくなったというだけのことかもしれない。
あと数年もすれば、娘も家を出る。子供たちがそれぞれ所帯を持つまでには、まだしばらくあるが、その後、私と妻は親としての役割を実質的に終えることになるだろう。親として生きてきた部分は、これまでの生活の中でけっして小さくはなかっただけに、その後のことも、それなりに考えておく必要を感じ始めている。
私には、これをしたい、あれをやってみたい、という欲はあまりない。歳をとって仕事を離れると、家の中に閉じこもってごろごろしているうちに、身体的にも精神的にも機能がどんどん衰えていくタイプなのかもしれない。
面白いことに、自分のためにはあまり積極的に行動できなくても、他人のためならば、結構一所懸命になれるところがある。そういえば、私が煙草をやめたのも、自分の健康のためなどではなく、娘からやめてくれとせがまれたからだった。仕事にしたって、そういう側面があってこそ、成り立っているところもあるように思う。おそらく、人という生き物は、他者に愛情を注ぐことで充足感を得たり、他者と関わることによって、自分の存在価値を確かめたりしたい生き物であるのかもしれない。
これからは、妻とお互い支えたり支えあったりしながら生きていくことになるだろう。そして、それは取りも直さず、相手を支えることで自分を支えていたり、相手から支えられることで相手を支えていたりすることにもなるのだろう。割れ鍋に綴じ蓋のような私たち二人の関係だが、相手がいるということの有り難さにはあらためて感謝したいと思っている。


『グラントリノ』は、如何にして人生に幕を引くべきかを模索する老人の物語である。苦い思い出に満ちたそれまでの人生を丸ごと受け入れつつ、自分の気持ちを偽らず真摯に生きようとする主人公の姿が胸を打つ。役者としても、監督としても、間違いなくクリント・イーストウッドの最高傑作だと思う。
ひとは消えても、残されたひとのなかにその姿をとどめる。そして、日常は、昨日と同じように今日も明日もまた過ぎていく……。
グラントリノが走り去った街を、淡々と定点カメラで捉え続けるエンドロールが、深い余韻をしみじみと残す。

 ブログを書くのが嫌になるとき


結局、コラムのようなものを相も変わらずだらだらと書き続けているわけですが、どっちでもいいようなことしか書いていないなぁ、なんて今更ながら思ってます。一番問題なのは、論理的に話を展開しているようにみえて、論拠として客観的に正確な事実を集めているわけではないので、結論に説得力がないところです。論説文としては致命的です(笑)。
やっぱり、ものぐさなのと自分なりの確固たる結論を追求するという真摯な姿勢が欠けているのがいけないんだと思います。webなどから丹念に事実を拾い集め、多角的に幾つも問題を提起した上で、しっかりと論を展開すべきだということは、よく分かってるんです。でも、情報を収集するのは面倒だし、問題を立てる力も不足しているんでしょうね。
じゃぁ、お前のエントリはいったいなんなんだと問われると、強いて答えれば、感想文でしょうか。自称、論理的な展開をもつ感想文。要するに自分の折々の感情や感想を論理的に分析した文章ではないかと思っているわけです。
こんな無責任極まりない書き手ですが、時々、書きあげたエントリにうんざりして、もうブログを書くのをやめようかと思うときがあります。前の『世界フィギュア 2009』なんかもその一つですが、プロフェッショナルについてえらそうに上から目線で解説しているエントリなんぞは、削除してしまいたい衝動によく駆られます。
たぶん、私は自己顕示欲が強いうえに自分の眼力に自惚れているのだと思いますが、批評家的な距離を置いた態度や自己顕示がけっして悪いとは思っていません。ただ、その道のプロフェッショナルに対して「あなたはここが悪い」「ちょっとこうした方がいいんじゃないか」という偉そうな態度が文章から透けて見えるところが嫌なのです。同じように見えるものでも、自分の感情や心の動きが丁寧に追われたものは、むしろ大好きで、これからも、できるだけそういうエントリを書いていきたいと思っています。
なんか愚痴っぽくなってしまいました。『プロカウンセラーの聞く技術』という本によれば、溜まってきた感情をそのまま放っておくと、それは大きなストレスとなり自分の体や人間関係を壊すもとになるので、「愚痴をこぼす」ことは大いに意味がある行為だそうです。してみると、こうやってブログに書くことで、溜まった感情をwebの向こう側の人に聞いてもらうのも自分にとっては意味があることなんでしょうかね。くれぐれもwebに撒き散らされた愚痴の毒にやられないようにお祈り申し上げます。